サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍

2011年02月08日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍      19
 2011.1


 沙蘭鎮の一夜が明けると、一行長蛇の列は、東京城方面へと連行されて行った。約40キロの行程であった、夕方近く大きな川岸にたどり着く、この川は鏡白湖から流れ出て牡丹江へと続く水量豊かな大川である。そこには大きな橋が架かって居て私達が渡満し訓練所に入所する時も、ハルピンに行った時もこの橋をトラックで渡った事だった。今は日本軍が追手を防ぐ為、橋は壊され跡形も無かった。東京城はもうすぐの所だが今日はこの橋の袂で野営しなければならない、その近くに小さな満人があった。その中に、長い土壁で囲まれた大きな家がある、屯長(村長)の家であろうか。その塀から、見た事もなかった、きれいな満州娘が体を乗り出し我々を珍しそうに覗いている、三郎は初めて見るクーニャンである。お下げの前髪の奥に涼しい瞳が光っている、透き通ったような色白の顔、その衣装といいまるで人形のようである。おそらく屯長の娘であろう、今までは日本人を恐れて我々に顔を見せる事は無かった満人の娘、日本が負けた事を知り、怖いながらも優越感と珍しさをもって我々を見おろしているのであろう。満人でも裕福な階級はこんな生活をしているのだな、と、今更ながら満人の生活の裏を垣間見る事が出来た。
 明けて、この100メートルはあろう川を渡らねばならない。しかも牛を連れての事。これは大変、馬を連れている者は馬にまたがり川に乗り入れた。途中までは何とか行くが対岸に無事たどり着くものは少なかった。途中急流に流され、馬を捨て何とか泳いで渡ることは出来た。ここで何頭もの馬が流されてしまった。さて次は牛を渡す事になった。牛は舟で渡す事になった、人が舟に乗り牛の手綱をしっかり持って牛を泳がしながら渡すと言う寸法である。それにしても三郎の出来る業ではない、困った、困ったと思いながら、昨夜繋いだ川辺に行ってみると、何と、わが「霧島」が居ない、さては昨夜、闇に乗じて近方の満人に盗られたか?三郎の牛だけでなく何頭もの牛が盗られていた。盗られたのは悔しいが三郎は胸を撫で下ろした。とてもあの牛を曳いてあの大川を渡すと言う芸当は自分には出来ないと思っていたので、これこれ、此れで良かったのだ、ひそかに安堵の胸を撫で下ろした。
 全員が無事渡河することが出来た。数頭の牛馬も渡ったのであるが、ここでソ連兵にすべて没収されてしまった。
そして東京城へ向かっての行軍。いつの間にか栗田所長はソ連軍に連行されており、それ以来見る事は無かった。
やがて東京城。ここは8―10世紀ころ、中国東北地方を治めていた渤海王国の首都であった。今は首都とは程遠い落ちぶれた田舎町となっているが。この東京城は多くの義勇隊、開拓団、関東軍の交通の要衝の地である。駅前広場には私達だけでなく、開拓団の人、関東軍の兵隊、一般人等大勢の人で混雑していた。ソ連もこの多くの日本人を捕虜にしたものの何処に拘留するかに頭をかかえて居るのであろう。長いこと待たされる。三郎はあまりの退屈さで駅構内をぶらぶら見て廻る、この図佳線鉄道、今は汽車は通っていないようである。おそらく日本軍が敵の進行を防ぐため要所、要所を爆破したのであろう、駅には幾本かの貨車の引き込み線があり、貨車が何台も連結されたまま停っている。好奇心に誘われて見て廻ると、その中の一台に、何と大きな、大きな大砲の弾が載せられている。その大きさたるや見た事も無い大きさである。一発の弾が一つの木枠に入れられ梱包されている。弾の直径が40センチ、1尺5寸はあろう、高さは自分の背丈くらいある。いつか聞いたことがある。ソ満国境、虎林にそれは、それは大きな大砲が備えてあると。この大きな弾を飛ばすには相当大きな大砲でないと発射する事は出来ないだろう、三郎はその情景を想像しながら、こんなのが有るのに日本は負けたのか?そうだその大砲の弾が之だ、と独りでがってん、この弾が、其処に運ばれていたのだが、残念ここに無念の姿をさらしているのだ。おそらく日本本土から運ばれる途中だったのだろう。
やがて集まれ、集まれの声が聞こえて来る。行って見ると整列させられ、ソ連兵による点呼であるが、なかなか員数の集計が出来ないらしい?点呼が終わると、われわれの前に関東軍の軍医数人がソ連将校に連れられてやって来た、皆将校服を着ているが襟章は除けられている。その中の一番上級らしい軍医が、「今日から皆さんの健康管理をする事になった、安心してもらいたい」と言って各中隊へと分散して行く、しかしこの軍医たち一時間も経たない内に何処かに消えてしまった。これはおかしい、これは国際法に定められた捕虜の待遇の一コマをソ連が演じたのでは?と。その後軍医の現れる事はなかった。
そして我々の目の前で、父親と少年が引き裂かれる場面が見られた、父親は泣きながら訴えていたが許されなかった。おそらく親はシベリヤ行きのクループに入れられたのであろう、少年はどうなって行くのだろう。
私達は数刻ののち、駅から数百メートル程の所の大きな陸軍病院に収容された、この病院は完成したばかりで屋内には何の設備も備品も置いてなかった。中庭には食糧の高粱が幾袋も山積みされていた。これは有難い、ここ数日は食事らしい物は何一つ口にしてなかった。最初の四.五日はこの真っ赤な高粱飯で過ごす事が出来たが、日毎に少なくなり終には一日一回お粥のような物が食器の底に少し有るだけとなった。そして炊事用の薪がなくなった、そこで新築したばかりの建物の、天井の板や壁板をはがし薪とした、毎日の事なので全ての天井が無くなり屋根板がむき出しとなった。塩分も一つも無かった。ところが、誰かが敷地内の一角で日本軍が塩を焼き捨てた思われる真っ黒な土を見つけた、その真っ黒の土を水で溶かし、その上澄みの水を煮詰めると、何と色は黒いが上等の塩が出来た。みな思わぬ塩分の補給をすることが出来た。ところが塩が出来たが、今度は食べ物が無くなって来た、自分の食べ物は自分で工面しなければならない事となった。とはいってもここは日本軍がこの病院を護るため、周囲に深い、深い戦車壕を堀り廻らし、その上に三重の鉄条網を張っていた。要所、要所には自動小銃を抱えた見張りのソ連兵が目を光らしている。この難所を潜り抜けなければ何も出来ない、ここを潜り抜け満人の作ったジャガイモやカボチャを盗りに行くのである。命懸けの仕事である。此処までせっぱ詰まった状態になって来たら団体とか義勇軍隊員として、とか、規律や統制はなくなっていた、誰も死ぬか生きるかの毎日である、三郎もじっとしては居たら飢え死ぬる。ある晩、闇に乗じて三人の友人とリュックを背負い、鉄条網をくぐり四.五メートルもある戦車壕を滑り落ちた。無事脱出する事が出来た。壕を離れると直ぐ其処に鉄路があり、それを伝ってしばらく南の方へ歩くと、其処に壊れかかった橋が小川を渡っていた、全く当ては無いのだが、この橋を渡ればなにか有りそうな、ひそひそ話しをしながら危ない橋を渡る、暫く行くと、幸いジガイモ畠に突き当たった。これこれ、これはしめたもの、薄明かりの畠を手探りで探し、丸々とした芋をしっかりとつかみ。それぞれがリュックに収める。欲張りたいのだが、帰りのあの戦車壕を登り鉄条網をくぐらねばならないと思えばそこそこにして帰ることとした。天の助けか皆無事隊に帰ることが出来た、皆寝静まった中、リュックを床下に隠し、そっと我が毛布に潜り込んだ。これで数日は命が繋げる、人知れずほくそ笑みながら目を閉じた。
退屈なある日の事、中庭でけたたましく自動小銃の音がした。皆駆け寄ってみると、日本の兵隊が無残にも胸から腹へ何発もの銃弾を受け悶え苦しんでいた。そこには赤ら顔をしたソ連兵が銃を手に突っ立っている。聞くと、ソ連兵が日本兵に帯皮を要求したが、それを拒否したため撃れたとの事である。日本兵の帯皮がソ連兵にとっては、それだけ珍しく上等に見えたのであろう、騒ぎを聞きつけソ連将校がやって来て連行していった。日本兵は戦友によって担架で運ばれて行った。
この事件があって数日後、私達義勇隊員は軍人達とは別に、2キロ程離れた小高い丘の上に在る、日本人の開拓団の跡に連行され中隊ごとに分散収容された。ここの我々を監視するソ連兵は粗暴な兵が多く、ちょっと気に食わぬ事があると銃で殴ったり、わが幹部の部屋に怒鳴り込んだりしていた。ある日数百メートル程下に流れている小川に行き洗濯をするよう指示された。久しぶり開放されたような気分で下りて行くと、そこには十数人のソ連兵と数台の車が居並び、見た事の無い大きなカマに真っ白な蒸気を噴かしていた、そのカマに我々の衣服を脱がし、消毒やシラミを駆除するとの事である、私達は褌ひとつにされ、消毒の終わるのを待たされた。小川にはソ連兵も川辺で無邪気に戯れていた、その中の一人が携帯の手榴弾を川に投げ込む、爆発音と共に1メートルほどの水柱が立ち、暫くすると鮒のような魚が白い腹を見せ、あちこちと浮かんでくる。それを拾えと私達に強制する、これを拒むと服のまま川に投げ込まれるのである、幸い三郎は逃れたが数人投げ込まれた、なかでも投げた手榴弾が爆発しなかった。その不発弾を取って来いと、川に放り込まれた隊員がいた。これを見守る私たちも生きたここちはしなかった。やがてこれを無事拾いあげて来た戦友に一同安堵の胸をなでおろしたのである。全く命がけである。
三郎は洗濯を終え二.三人と共に少し遅れて宿舎へ帰って見ると、全員集合されていた。ソ連兵によって隊員を選別している。自分は普段の通り隊列の自分の位置に割り入った。この選別はソ連へ連れて行かれる者と、日本へ帰される者と、背の高さによって仕分けられているようだ、三郎は洗濯から帰るのが遅かった為、わが隊列はすでに選別が終わっていた、ここでも三郎は命拾いをした。
それから何日過ぎたであろう、日にちは全然分からない、そろそろ朝夕秋を感じるようになったある日、東京城駅前に連行された。連行するソ連兵が「ヤポンスキー、トウキヨウ、ダバイダバイ‼」と意味は分らないが、東京、東京と言うことはよく分かる、ひょっとすると開放されるのではないか、と、かすかな望みを胸に駅前に到着。各中隊毎整列、ソ連の将校四.五人がなにやら相談している。やがて通訳より、「これから皆さんは日本に帰れます、中隊毎、20分毎に出発してください」との事、一同喜びのどよめきが起こった。そして一団ごと員数を確認のうえ、なにやらロシヤ語で書いた許可書に大きな三角の印を捺した紙を貰った。わが広瀬中隊はあちこちと満州の中の軍事工場等、小隊単位で徴用されていたので本隊は百名に足らず、愛媛中隊と合同し百十数名の団体を組み出発する事となった。しかも一番先に出発を許された。三郎もこの大満州に骨をうずめる覚悟でやって来たのであるが、今は無念の一歩を、錆びた鉄路の枕木に降ろさなければならなかった。        つづく