サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍       21

2011年02月27日 | Weblog
     草鞋を履いた関東軍     21
   2011-2

汽車は真っ黒な煙を吐いて南へ南へと走り出した。私達を乗せてくれたのは無蓋車なので、その煙をまともに受けながらの旅であった。みな痩せ細った黒い顔に目玉だけが光っている。それでも歩く事を思えばまことにあり難い事、見知らぬ町や村。故郷を思い浮かべながら汽車に揺られていた。これで釜山(プサン)まで行って、そこから船で日本へ、後三、四日で我が家に帰り着けるのだ。嬉しさで胸いっぱい、家の両親兄弟、なんぼか心配しちょるろう、早う帰って吃驚させたい。そんなこと、あんな事思いながら列車は走る、走る。
やがて汽車は夕方近く鉄(てつ)原(げん)(チョルウォン)と言う駅に着いた。こんな小さな田舎の駅にどうして停ったのだろう。暫くすると四、五人、例の自動小銃を持ったソ連兵がやって来て。ここから南へは何人も通さぬと言う。通行の証明書を見せるが。通してくれない。この先にソ連軍と、連合軍と占領しあった境界線が有るらしい。この証明書では通すことは出来ないと言う、これは困った。してみると、どうして朝鮮の公安委員は私達をこの汽車で此処まで送ってくれたのだろう、朝鮮側も知らなかったのであろうか?朝鮮側は出来るだけ日本人を本国に送れば厄介者が居なくなると言う勘定。ソ連側は、わが占領域にとどめて使役にでも使おうとの思いだろうか。とにかくここより一歩たりとも日本人は南へ通さぬ構えのようだ。私達はこんな境界線があるとは夢にも思っていなかった。終戦に関してはなんの情報も、我々は知る事も、知らされることも無かった。
これからどうするか、色々思い思いの事を話し合ったがまとまらない。それもその筈、終戦のこと、朝鮮の事、何の知識も無くここに突き当たったのだ。相談する人も居ない。ソ連兵もどうしろとの指図もない、ただ此処からは南へは行かさないと言う事だけははっきりしている。そうこうしている内に夕闇が迫って来た。すると又ソ連兵が来て、銃を振り回しながら、今度は鉄製の有蓋車貨車に乗れと言う、小さな窓が一つ有るだけの暗闇に全員詰め込まれた、詰めて、詰めて、前の者は銃の床尾板で殴られながら詰め込まれた。この状態で一夜を明かすこととなった。皆横にはなれず重なり合うように座る。それでも疲れていたので、うとうとは眠る事が出来たが、つらい一夜となった。
朝早く頑丈な鉄の戸を開けてくれた。皆トイレに走った。さて今日はどうなる事か。仕方なく引き返す事にはなったが、何処へ行くかが、決まらない。何処か大きな町へ、平壌(ピョンヤン)か、咸興(ハムフン)か、元山(ウォンサン)か、との意見が出た。しかし誰もこれ等の町へ行ったこともなければ、その都市の名前すら今聞くのが初めての者ばかり。しかし何処かに行くしかない。ままよ一番近い元山と決めた。都合よく汽車は私達の言う事を聞いてくれ、夕方近く見知らぬ都市、元山駅に着いた。ここでは、終戦後、直ちに街の有志により戦災避難民の相談、援助、そして、ソ連側や地元朝鮮人の要求する使役の割り当て等、敗戦後の日本人の世話をすると言う、誠に崇高な奉仕の心を持った人々が会を創り活躍していた。私達は有難くもこの会のお世話になる事になった。私達のように集団で満州から避難して来たのは初めての事、又少年ばかりなので世話会も、その取り扱いに苦慮しているらしい。やがて会の人より、突然の事で今日はどうする事も出来ない、今晩はこの駅で泊ってくれ。とのことであった。私達は久しぶり屋根の下で寝ることが出来た、足も伸ばす事ができた。
寒さで目を覚ますと早くも昨夕から世話をしてくれていた、世話会の人々が来て何かと面倒みてくれる。朝飯として大きな魚の丸干しした物を下さる。三郎達は、こんな魚は見たことも無かった。口にするとカスカスとして味もしゃしゃらも無いが空腹に久しぶりの贈り物であった。
少年ばかりのこの避難民、日本人世話会ではいろいろと思案の結果、今元山市内に在住の日本人家庭に引き取り世話をする事になったとの事。ただでさえ苦しい終戦後の生活、そこへ他人を引き取り世話をすると言う事は並たいていの事ではない、敗者となった日本人に対し、ソ連は勿論の事。朝鮮人のお返しは厳しく、自分の家庭を護るだけでも必死のところへ、見ず知らずの少年を抱え込むのだからたまったものではない。やがて三郎も数名の隊員と共に配られることとなり、一人の青白いインテリ顔の小父さんに連れられた。とぼとぼと街中を歩き始める。そして一人、また一人と預けられて行く、各家とはよく話が出来ていてかスムーズに引き取ってもらえる。三郎はなかなか配ってもらえない、最後の一人となった、、、、、、、、、つづく