サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍     20

2011年02月19日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍     20
   2011.2

 真っ先に開放された私達中隊は、日本に帰るのに、どの方向に歩けばよいのか分からない、地図も無ければ、教えてもくれない。ただこの鉄道を南に向かって歩けば朝鮮に出るだろうと思うだけ、この満州に来た時、朝鮮の羅津から汽車に乗ったのだが、ここ東京城(とんきんじょう=トンチンチョン)に着いたのが夜明けであり、沿線の景色も何一つ見る事も無く、この駅に降り立ったので、どちらに歩けばよいのか、また道路が何処にどう通っているのかも分からない、とにかくこの鉄路を南に歩く事に決めた。
 それにしても、あの一緒に収容されていた関東軍の兵隊や、一般開拓民の人々はどうなったのであろう。今になってやっと関東軍の様子が少し分かってきた、日本兵から漏れ聞くところによると、開戦当時、関東軍の主な精鋭部隊は一部を残し南方の戦線へ移動し、その後に現地召集で急ごしらえの新兵をこれに当て、員数を合わせていたようだ。しかし戦闘訓練は出来てなく、また銃さえ無かったそうである。これでは戦さは出来なかったであろう。
そうだ。あの関東軍の大親分は、とうの昔、草鞋(わらじ)を履いていたのだ。わが郷土部隊、朝倉の44連隊も南方や本土防衛に、密かに転戦していたようである。
 しかし一部残された関東軍の精鋭はソ満国境で、又牡丹江の防衛に死力を尽くし奮戦したとのことである。そうだ、その戦いで生き残った兵隊が、我々と先に出逢ったあの草鞋(わらじ)を履いた兵隊であり、沙蘭鎮の攻防で無残な死を遂げていた兵隊さんであろう。
 三郎は今更ながら、その激戦の様子を想像しながら、この図佳線(図門から佳木斯(チャムス))の鉄路の枕木に、わが歩幅を合わせながら一歩一歩日本へ日本へと歩を進めるのである、朝鮮までおよそ400キロ、100里はあると言う。食糧も持たず、先のわからない苦難の旅が始まった。
2キロほど歩くと、この線路より数百メートルほど離れた所に、日本人の婦女子が収容されていた。われわれの通るのを見付けて一人の中年女性が、「待って、待って」と大声を上げながら駆け寄って来た。「どうか私達も連れて帰って」と泣きながら訴える。
しかし私達は人数に合わせての証明書、どうする事も出来ない、その理由を話し、まことに気の毒な事ではあったが、断わざるをえなかった。そこの収容所には女な子供、百数十人が収容されているとの事であった。
夕方近く長いトンネルの入り口に来た。入り口の両側には塹壕を築き銃眼が備えられていた。日本軍がこのトンネルを護る為のものであろう。
私達、今日どのくらい歩いたであろう、開放第一日目の嬉しさもあって、ちょっと頑張り過ぎたか、皆へとへとになった。今日はこのトンネルで寝る事と決まる。食事は各自、ポケットの底にある大豆である。大豆は線路脇の畠で盗んで来たもので、それを空き缶で炒り、ポケットに大事に持っているのである。有難いことに、この時季、満州は農作物の収穫期であった。
暗くなって来たので、皆それぞれ、文字通り枕木を枕に寝る準備をしていると、ゴオーゴオーと地響きの音、「そら‼汽車が来た!」一同あわてて両側の壁に張り付いた。その音が近付いてくる。それは汽車ではなく線路の補修点検用の、手漕ぎの台車であった。我々も吃驚したが、その満人達も危険を感じたのか全力で漕ぎ、逃げるように走り去った。
一夜明け、それからの毎日線路伝いの行軍が続く、橋はことごとく爆破されており、その破壊された部分は枕木を使って、川底から升目に積み上げ補修されていた。駅の在る所は満人の集落が在るので危ない、そこは急いで通過する。満州では駅と駅との間が随分と遠いので、その中間に信号所がある。その信号所には鉄道を護る番人が居り、その宿舎もある。付近にはその人達の生活の菜園場が有った。これは有難い、荒野の中の一軒屋、その周りには西瓜、マクワウリ、ジャガイモ、カボチャ、色々の野菜があり、その主は何処かに避難したのであろう居なかった。これは我々に天から与えられた贈り物、助けであろう。今夜はここで泊ることとなった。それからは、毎日この要領を覚え信号所で泊りながら南へ南へと歩く。
何日歩いたであろうか、その線路の、要所、要所にソ連軍が駐留して警備をしている。そこを通過する場合は勿論通行証明書を調べられる、そして全員のリュックの中を探られる。そしてめぼしい物は全部取り上げられる。時計、万年筆はいの一番に取られた。守備兵全員が気のすむ迄探り終らなければ通してくれない。すべての検問所でこれの繰り返しである。終いには我々から先にリュックの中身を広げて、どうぞ好きな物を取って下さいと提示するようになった。
ある日は守備隊の隊長、カピタンが酔っ払っていて、部下の自動小銃を取り、我々の頭上向けダダダダーとぶっ放す、弾が無くなると、つぎの兵の銃をとり、これをもぶっ放す、一回引き金を引くと70何発かの弾が飛び出す。この酔っ払った将校が、銃口を少しでも下げれば我々は皆殺されていたであろう。気違いに刃物だったが、幸いここでも命拾いすることが出来た。撃って我々を威嚇すると言うより自動小銃の性能を誇示したかったのであろう、日本軍にはこんな性能のある銃は無かった。
線路は次第山深く急勾配で上がっていく、ここは老爺嶺(ろうやれい=ラオイエリン)山脈の中らしい、ここの線路脇に唐辛子を真っ赤に屋根に干してある、朝鮮人特有の集落があった。そこを通っていると、そこの住人達が大勢出てきて我々を遠まきにして近づいて来た。
我々が日本に帰る事を伝えると、いかにも納得し難い表情で我々を見つめていた。この人達も日本の国策によりこの満州に入植して来た人達である。日本が負けた今、この朝鮮人は、どのようになるのであろうか?日本人の様にソ連に拘束はされなかったようであるが、満人はどのように、この人達に対処しているのだろう。落ち行く私達を見て、他人ごとではないと見ているのであろう。
長い事歩いてきた私達の中に、靴が破れたり、靴づれで靴が履けず裸で歩いている者が数人いた、それを見かねてか、この人達、わざわざ新しい草履(ぞうり)を持って来て私達に履かせてくれた。有難いことである。今度は草履(ぞうり)をはいた義勇軍となった。 
日頃朝鮮人をみくびっていた日本人、今此処に日本の少年達に同情の草履を恵んでくれる。誠に有難い、感謝の気持いっぱいで此の集落を後にした。
其処よりしばらくのところに老爺(ろうや)駅があった。この辺りが満州から朝鮮方面へ越す標高最高の峠であろう。見渡す限り山また山、斧鉞の入らない山岳地帯である。この辺りに、山下将軍の財宝が隠されていると言う、この秘宝はマレー半島や、ヒリピン方面での戦利品。山下将軍は先年関東軍、第一軍の司令官としてやって来た。そ際、その莫大な財宝をここに隠匿し、来るべき決戦に備えたとの噂である。
ここは関東軍が朝鮮を護る最後の砦である。この老爺嶺、これに続く長白山脈に立て籠もり、あくまでもソ連の進行を食い止める作戦であったようだ。
鉄道は益々急勾配となり、線路はループ式トンネルとなっていた。その中は何箇所も日本軍が防衛のため爆破していて、今だに汽車は通ることが出来ない、したがって我々も鉄道を当てにして歩いていたのだが此処で線路と別れ、それらしい道を探し、やっとトンネルから出てきた線路へ再び出る事が出来た。頼りはただこの線路のみである。誰もが疲れ、ただただ黙して歩くばかり、すると何と日本の将校が日本刀を引っ提げ、一個小隊くらいの満軍の兵隊を引き連れ、われわれと行き違いとなった。そこでしばらく色々と立ち話をしたのだが、その将校はこれからあの山へ登る。「お前達元気で日本に帰れよ‼」と言って、その兵を引き連れ山に消えた。私達は不思議に思えたのだが、あとに聞くと、毛沢東と、蒋介石が喧嘩を始めたらしい、日本将校は、そのどちらかに雇われての行動であったのではなかろうか。
暫く行くと、今度は突然頑強そうな満人に出会った。向こうさんもびっくり、日本の少年の一団に逢うとは?、片言の日本語で、「此処を動くな、ここで待っておれ」と言って道の下へ走って行った、下の方を見ると数十軒の満人の集落が見えた。我々はこれは危ないぞ、あいつが人を集め追剥ぎに来るつもりだ?「それ急げ」私達小走りにその場を逃れた。日本人に恨みをもつ満人が暴徒となって日本人を襲うと言う話しはよく聞いていた。しかし我々は一番先に解放され南に歩き出したので、暴行するつもりの満人もその準備が整っていなかったのが幸い、事なきをえた。
それから何日歩いたであろうか、国境の街、図門に到着。全員無事、朝鮮に入る事が出来た。見知らぬ街を歩いていると、「あ?日本の日の丸だ‼」皆歓声を上げる。よく見ると大きな建物の上に日の丸の旗が、へんぽんと翻っている。「日本が負けたと言うが、あれを見よ、負けちょりゃあせんぞ!」と、その日の丸を目当てに勇んで近づくと、その日の丸の四隅に何か模様があり、中の赤い丸も変だ、映画で見た、大石内蔵助が討ち入りの際たたいていた太鼓の模様みたいな物見える。こんな国旗見たこと無い。私達は唖然として足がすくんだ。誰かが「ありゃあ朝鮮の旗ぞ?」と言った。皆黙った。そうこうするうち、朝鮮の公安警察がやって来て日本人世話会に連絡し、その人達によっていろいろ世話をしてもらい、この図門から汽車に乗せてやると言う。一同大喜び、しかし汽車といっても無蓋の貨車であった、それでも有難い事、みな疲れきった脚を台車に放り投げ、振り落とされないよう注意しながら、憧れの日本へと発車したのである。が、、、、、、、、、。つづく