合気道鴻心館《明月会》Meigetsukai

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“マイヤ・プリセツカヤ”その1  堺市の合気道場‐護身術鴻心館

2015年06月20日 | 合気道
 写真は全て「闘う白鳥」より抜粋しています

 
《マイヤ・プリセツカヤ》


 2015年5月3日 (タス通信) 最高のバレリーナであった旧ソ連・ロシアの
 マイヤ・プリセツカヤさんが2日、滞在先のドイツで死去。
 89歳 でした。

 プリセツカヤの自伝書「闘う白鳥」
 私は、2003年7月に購入しました。
 以来、今でも時々開いて読んでいます。
 それぐらい内容の濃い、しかもスリリングな内容です。 

 この書は、指導者とは何かということを教えてくれたり、
 また、ソ連という国で生きていく厳しさも、酷さも、やるせなさなど
 様々なことを読む側に伝えてくれる貴重な自伝(書)です。

 ところでプリセツカヤは、バレエの入学試験に合格した有名な話が
 のっています(本文p39)
 
 そのプリセツカヤが
バレエの世界に入る運命を決定づけたのは、
 実は「お辞儀」でした。

 本文に書いてあるのを抜粋する前に
 バレエ受験生に求められるものは
 ・身体的な適性、健康、音楽的素質と必須条件としてリズム感
 だけでした⇒ これはプリセツカヤが本文で述べています。
 プリセツカヤは、頻繁にテンポが急変する音楽に合わせて歩かされた
 と振り返っています。
 このテストは
 身体がそのテンポの変化を敏感に感じるかどうかを評価するためだそうです。
 
 つまり天性の芸術的素養があるかないかを見極めるということでしょう。

  
 「私の運命を決定づけたのは、選考委員に向けたレヴェランス(お辞儀)だった」p39
 「ヴィーチヤ・セミョノフは、わたしのレヴェランスを見て、一存で強引に、決定を下した」
 「この子をいれることにしょう」と・・・

  こうしてバレエを習い始めたのが1934年でした。

※ヴィーチヤ・セミョノフとはバレエ学校の校長。
 やはり子供のときから、他の子たちとは何かが違っていたのでしょう。
 しかしそれを見抜いた人が選考委員だったことは幸せだったというべき
 でしょうか。
 


《34.パリでの出会い》p246~258

 プリセツカヤを有名にしたのはとにもかくにもパリ(フランス)でのことらしいです。
 パリ公演で
 《白鳥の湖》の幕が降りた後のカーテンコールは、27回だったといいます。
 プリセツカヤはその時の自身を振り返って、自分のどこがパリの観客に受けたのかを
 興味深く自己分析しています。

 そこは、キーワードとして 

 「バレエは、技術だけで世界を制覇することは不可能である。」P248 
  続いて

 「これは私のかわらぬ信念だ。今も、そして150年、200年先も昔と同様に
  、踊りは、なによりも見る者の心を揺り動かし一体感を抱かせ、涙を
  誘い鳥肌を立たせるものでなければならない・・・」


  そう締めくくっています。 

   これなんかは、あるレベルの者なら誰でも
   言いそうな言葉だけれども
  プリセツカヤの自伝を読んでいると
なにか別な重みが心響いてきたりもします。


   つづく  
 

 

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