音信

小池純代の手帖から

雑談17

2021-08-27 | 雑談
つんどく山で捜し物をしていると、枯れた葉っぱか熟れた実のように
本が落ちてくることがある。

喩えではなく、ほんとうに足元に落っこちてくる。
捨て身で存在を示しているのかもしれない。
なにかのご縁だと思って手にとってみる。

今回、落ちてきたのは岩波文庫の青帯『碧巌録』上巻。
我がつんどく山のなかでも古株で、最高峰のひとつだ。
つんどく山には最高峰がいくつもある。

   

開いてみたものの、読みにくい。
北宋初期の雪竇(せっちょう)が数々の禅録から選んだ公案に賛を付けた編著に対して、
北宋晩期の圓悟(えんご)が解説・論評・短評といった各種のコメントをかぶせた編著。
雪竇の文の句間に圓悟が〔 〕で割り込んでツッコミを入れていたりしてそわそわする。
つまり読みにくい。

声優さんに声色を各種使って読み分けてくれると
おもしろいのかもしれないし、
頭注や脚注やフォントの大小やフキダシなどで
レイアウトを工夫してくれれば、
意外とすっきり読めるのかもしれないが、そうなってはいない。
つまりわたしには読みにくい。

溝口雄三先生の「解題」に、
「調和と反調和の機妙と緊張がかもしだされているかにみえる」
とある。
つまり読みにくいと思ってよいのだろう。

溝口先生は、「解題」で次の本を紹介してくれている。
もともとはこの本が『碧巌録』の土台なのだ。


   
  入矢義高・梶谷宗忍・柳田聖山『雪竇頌古』(筑摩書房1981年)


つまみ読みしただけだが、いくつかの公案に滑稽な魅力を感じた。
稲垣足穂の『一千一秒物語』とか、不条理コントの類いに近いようだ。

禅僧たちはこんな言葉の贈答をして心底愉快に
修行していたのではないかとも思われた。
彼らは大いにたのしむべく、けっして笑わなかったのではなかろうか。
知らないけれど。





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