音信

小池純代の手帖から

雑談59

2024-03-15 | 雑談

土岐善麿『京極為兼』を眺めていて目にとまった一節。

── 草木を風吹きて枝をならすも、柯は哥也とて、それまでも歌なるよし、
  撲揚大師も釈せられて候ふとかや     (「為兼卿和哥抄注」)


撲揚大師(唐の僧、智周)が説いたことばを引いたもの。
こんな意味のようだ。

 草木を風が吹いて枝を鳴らすのだって歌ですよ。
 枝つまり柯。木偏に可。可を重ねれば哥、すなわち歌。

それで思い出したのがこの一節。

── 歌人とは、名も無く、位も無い人だとわたしは思います。
  一本の樅の木が、ただ空に向って突っ立っているようなものだ。
  そこを風が渡れば、それがすなわち歌なのです。  
           (玉城徹「歌人と歌と」『短歌実作の部屋』)


「草木を風吹きて枝をならすも、柯は哥也」
「そこを風が渡れば、それがすなわち歌」

よく似ているもの同士がうなずきあっているようだ。
ここから思い出すのが次の一節。

── 最終的に、自身にもはかり知れざる、ある力がはたらいて
  一首が完成する。     
    (「酢牡蠣一つ」玉城徹『わが歌の秘密』村永大和編)


風が吹く感じはちょっと薄れるけれども、
風に吹かれる草木の身になれば斯くの如きか。

この文言は『村木道彦歌集』(現代歌人文庫)の「ある日の日記」に
引用されていたのを見たのが最初。
(そこでは「はたらいていて」とあったが原本では「はたらいて」)。   


 わがこころまずしかるべしコロンバンのチョコレートや春やにおやかなれど  
                       村木道彦「逆光の春」










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