愛が身籠ったからである。
彼女の子はたしかに自分の子に違いない、と卓は思った。何故なら愛が他の男と交わる筈がないから。
妊娠3カ月と言うが、それ以前もそれ以降も愛は一人では買い物以外の外出をした事がない。
卓が愛の行動を把握しているのは、愛のスマホと彼のスマホを予め同期にしてるからである。
彼女と暮らしを共にしてから彼が驚いたのは驚く程に愛が物を持っていない事だった。
衣服も同じものを何回も着回して、家具や家電製品にしても必要最小限に抑え、女の子が喜びそうなグッズは全然揃っていなかった。
彼女の部屋の荷物の整理をする時、古びた丈の高いこけしが玄関に飾ってあったのが目についただけである。
「鳴子のこけしよ」
愛がポツンと言った。
「なんでそんな質素な生活してるんだ?」
「だってお金を持っていないから」が無邪気な答えだった。
「それは無いだろう。君の家は金持ちだった筈だよ!」
「どうして知ってるの?」
「坂下が言ってた。あいつお前が好きだったらしいぜ」
「ああ」愛はふと寂しげな微笑を浮かべた。
彼女は一見ごく平凡でちょっと可愛いだけの女に見える。人目に立つ女ではない。
しかし、不思議と男にモテる事に卓は気付いた。
それに気づいた時、卓はひどく不快感に襲われた。初心に見える愛は処女ではなかった、と言う事は他の男に目をつけられる危険性があるという事だ。
彼女には隠したい大きな秘密があるのではないか?ひょっとして彼女は俺の事を一番好きだなんて思っていないのではないか?
愛を他の男に取られるなど卓の傷つきやすい自尊心が許さなかった。
そこで愛が所持していたスマホを買い替える際、店に頼んで内緒で同期にしたのだ。
親戚と名乗る卓が一流企業の肩書きが付く名刺を見せると店のアルバイト定員はニヤニヤしながら指示に従った。
そんな事実を愛は知らない。
愛が身籠ったのを知ってから卓はある事に奔走した。
次の勤め先を見つけてから損保代理店に辞表を出した。辞表が受理された後に二人の婚姻届を役所に出した。
次の勤め先とは外資系の損保だった。代理店勤務でなく本店で損保の知識が豊富なアドバイザーとして働く仕事である。
知己を頼り、伝手を探して人生の勝負に出た気になった。
30代の働き盛りの自負があったし、愛との間に出来た自分の子を護りたい気持ちが先に働いたのである。
あれほど馬鹿にしていた「家庭の幸せ」綿菓子のように儚いようなイメージだったそれが、その時の卓にとってかけがえの無い幸せに思えたのである。
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それから、さらに月日が過ぎた。
それは爽やかな秋の午後だった。
「検体検査の結果、癌細胞が見つかりました。初期のものですがね」
穏やかな口調で外科医師は告げた。
「は、それで私はどうすれば良いのですか?」
卓は我ながら頼りない質問だったと思い返す。
「患部のポリープは完全除去しました。ごく少数ですし。今後定期的に検査される事をお勧めします」
その後、要領良く生活上の注意を説明されて、パンフレットを渡された。
卓は仕事の忙しさから不規則な生活が続いた後、腹部が張る重い不快感を覚えた。
いつもの彼なら、無視するのが常だったが、ある日明らかにそれと分かる血便が出た。
いやいやながら、腕の良いと評判の開業医の検査を受けた結果がこれである。
卓は妻には一切この事を知らせていなかった。
動揺する彼女にを見るのが嫌だったからだ。
彼は目を伏せて我が家に続く道を歩いていた。
林に囲まれた小径を通ると、新築したばかりのマイホームが建っていた。
「ただし、40代の初めでいらっしゃるし、若い方は進行が速いのです」医者は眉をひそめて心配そうな(職業的なと卓は思う)表情で言った。
「ご家族にも相談されて今後の治療計画を立てられた方がよろしいです」
到底出来ないと卓は呟く。打ち明けた時の愛の反応を見たくない。
一時的にせよ精神的な病いにかかった女は耐えられないだろう。
実はかなり脆弱な神経の持ち主だった夫の為に、最後の最後まで忍耐し通した母の顔が目の前にちらついた。