「ただいま」
「お帰りなさい」
さりげなく言う妻の顔を見て卓は日頃気がつかなかった事が気になった。
「痩せたなあ」と感じたのである。
スマートというより窶れた印象だった。
「翠は?」
「悠君の家」
「ボーイフレンドかよ」
「気が合うんでしょう」
目を伏せて愛は言う。
「あいつホントに手がかからない娘だな。コロナ真最中でもクヨクヨせずにゲームで気晴らしして凌いでいた。病気にもかからんし、着替えも後片付けも言われない内にさっさとやってしまう。一人っ子なのにボーっとしてない。誰に似てるのか?」
「さああ。明るくて積極的は確かね。悠君たら翠のこと僕の太陽だって言ってるんだって」
「ウッソだろう!悠って子同じ年だろ。未だ8つで初恋?」
愛は笑い出した。笑うと窶れが目立たず、ふくよかな本来の顔が戻った。
一瞬、卓は今の自分の状況を忘れた。
そうだ。癌細胞が出来たと言っても初期のものだし、血便は一回きりの事だし、食欲が衰えた訳じゃない。
親が40代で亡くなったからと言っても自分にそのまま遺伝するとも限らない。幸いコロナなんて怪物は一段落してる。癌治療は進んでいるのだ。
大事をとって一月おきに検査だ、と担当医も言っていた。気楽に考えられりゃ良い。
と自分を慰めても、同じ年代で亡くなった母の闘病の姿が瞼をよぎって、滅入ってきた。
そうして表面的には穏やかな日常生活が過ぎたが、卓の心中は穏やかではなかった。
何事も結果が大切で、プロセスはどうあれ数字が出る事を優先したい主義を卓は通してきた。
仕事上の関係で人の深層心理など探るだけ時間の無駄だと卓は割り切れたのは多分家庭を持ったからだと彼は思う。
愛は当初の予想に反して相当健康志向の妻だった。
ハワイで見せた活発な顔の方が本物で、家庭に引きこもってる妻は仮面ではないか、とも感じた。
その性格ゆえか、愛は卓の仕事に一切口出ししなかた。
「浮気とか気にならないのか?」と卓が聞くと「だってあなたは結局ここに帰ってくるでしょ」と自信たっぷりに答える。
翠を産んだ際も安産だったし、育児ノイローゼにもかからなかった、ただコロナ禍に襲わ
れて体調を崩してるようだ。
ただし、自分が死んだ場合、愛は他の男と再婚しても充分普通に暮らせる女だ、と考えた途端、卓は不安に襲われた。
多分、癌になったと打ち明けたら心から心配して充分看護をする女だが、万一卓が死んだら案外ケロっと他の男と再婚してしまうのではないか?
最近になって身体の反応も漸く他の女並みになってきたようだし。
仕事中に変な妄想が浮かんできて卓は根拠もない怒りに襲われた。
それでも日々追いかけてくる仕事は待った無しである。
食欲も失せ、イラつく日々、訳もない憤懣を愛にぶつけた。
遅く帰宅した彼を迎えてニッコリした愛を「俺の疲れた顔を笑いやがって馬鹿にするな」と殴りつけた事もあった。
「大丈夫なの」と愛が覗き込むのが余計に気に入らない。
「この女は貞淑な妻を演じている。俺の遺産は全部自分のものになるし、病気を承知で死ぬのを待っているのかも知れない」
卓の胸に妄想めいた思いがわいてきた。
もっとも、表面的に卓は顔色が優れないだけで目立った変化はない
テキパキ進めていた仕事の進行にも、目に見えぬ程の影が出てきた。
そんな矢先に、彼は他の支店との打ち明わせで大阪に出張する事になった。
ハメを外すのに良い機会であるのに、卓はそんな気になれない。
妙に愛の事が気になった。
最近窶れてきた愛の顔が妙に色っぽく見える。悦びを知ったせいか?最近ご無沙汰してるし、妻に限ってそんな筈ないとは思うが、男がいるのではないか?
自分の留守は男と会う絶好の機会ではないか?
自分の事は棚に上げて、卓は妄想めいた嫉妬にかられた。
出張した晩、卓はホテルの一室に籠って自宅に電話をかけた。
ところが、いつもならすぐに電話に応える愛は出なかった。
暫く着メロが響いた後、電話は取り上げられた。
「もしもし」太い男の声が卓の耳に届いた。
「すみません、間違えました」
卓が慌てて電話を切ろうとした時、愉快そうに男の笑う声が耳に響いたのだ。