読書の森

セピア色の昭和20年代 その3



東京から祖母がやって来て、強引に私は連れていかれた。
「お前たちに育てられたら、この子は死んでしまう!」
東京の病院で診てもらうのだと言う。

そう言う祖母も自分の手で子育てした経験が無い。
全部女中さん任せだったらしい。

後年母は悪口を言ったが、あの時は祖母なりの精一杯の愛情だったと思う。

20年代の岐阜大垣は医療施設は十分でなかった。
為に、私の脚の治療も失敗したのだった。

両親は私を手放すのを嫌だが、経済的にも不安な状態で、病気の子どもを育てるのは無理だった。



私は生まれて初めて、大都市東京を見た。
のどかな田舎と違い、ビルが並び、人が多く絶え間なく動いている印象があった

その頃の日比谷公園や、東京駅は戦前の面影を残して、奥に何か秘めていそうな威厳があった。
ビルの焼け跡を利用しただけの飲食店もあって、生々しい感じだった。

早速、大病院で検査を受けると、結核でもなんでもない。
レントゲン写真の微かな影が見たて違いを招いたようである。

多分、心理的原因が病の症状を誘発したのではないだろうか。

と言っても、もう大垣へは帰れない。
両親は神戸の鈴蘭台で職探しをしていたからだ。

読んでいただき心から感謝いたします。

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