読書の森

触れ合い (最終章)



アルバイトは絵里一人ではなかった。
世田谷の高級住宅地に住む子どものいない奥さんが一緒である。
お上品で頭の良さそうな人だった。
一緒にお弁当を食べ、世間話をした。
彼女は、「家ばかりだと退屈で、もう一回バリバリ働きたい」と漏らす。
得た収入は当然お小遣いにするそうだ。

丁度季節は冬だった。
世田谷夫人は真っ白なフワフワした毛皮のコートを着こんできた。
絵里は目を見張った。
無性に自分も身に付けたかった。

お昼休みに、女子社員が肩を並べておしゃべりしている。
「後一日の我慢だね」
「そう、お腹空いたけどお茶飲んで我慢、我慢」
流行の髪型とお化粧をした二人が言うと、全然惨めに見えない。

何の事かと思ったら、独り暮らしの二人は給料日前に持ち金を使い果たして、ご飯代が出せなかったのだ。

世田谷夫人とはなんたる落差か、絵里はその時遅ればせながら金の力を思い知った。

アルバイトの給与は当たり前だが低過ぎる。給与の高い会社の正社員になりたい。もっと優雅な生活がしたい。
絵里は痛切に感じた。

新聞の求人欄を貪るように読み、外資系の会社の社員募集の記事を見つけた。
絵里は、憑かれたように英語の勉強をした。
女性の給与の良い事で知られた会社である。

翌年4月、絵里は運も幸いして正社員として採用された。
そして、夏のボーナスで念願の毛皮のコートを買った。

それは季節外れであるばかりでなく、絵里に全然似合わなかった。

あの何とも優しい保険会社のビルは、残念な事にもう今はない。
バブル崩壊で会社は潰れてしまったのだ。
渋谷にあった古き人情が溢れ、近代化に遅れた故に崩壊した会社の人との、さりげない触れ合いが絵里には忘れられない。
戻りたい過去は、遥か彼方に去って行った。

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