上山明博 なう。

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被災地「南三陸町」をゆく

2013年08月22日 | 南三陸をゆく
 地震に材をとった小説『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』を書き下ろし、出版社に入稿したのを機に、東日本大震災の被災地のひとつ「南三陸町」に行った。
 5月28日。3・11からすでに2年2カ月が過ぎているので、かなり復旧しているだろうと思った。が、交通機関は、いまだに寸断されたままだった。
 仙台から震源に近い石巻に行くためには、仙石線で「松島海岸」駅まで行き、そこから先の「矢本」駅へは、軌道が流されたため、JRの代行バスを利用。「石巻」駅で石巻線に乗り換え、さらに「前谷地」駅で気仙沼線に乗り換え。目的の南三陸町の「志津川」駅へは、駅舎ごと津波に流されて壊滅したため、軌道のある「柳津」駅から再び代行バスで「志津川」駅にかろうじて行くことができる。
 そうして、ようよう南三陸町に降り立った。
 ──眼前には、見渡す限りの更地が広がり、ところどころに今なお巨大な瓦礫の山が点在していた。

   2013年5月28日 南三陸町にて


1)南三陸町から港を望む
山側の国道398号から志津川港を望んだ。3・11によって、およそ2,000戸の家屋が流され、更地になった南三陸町の街の跡。見えるのは電信柱と瓦礫の山。



2)瓦礫の山
背丈の何倍もある、巨大な瓦礫の山また山。倒木やコンクリートごとに分別され、うずだかく積まれている。



3)志津川のおばさん
人一人通らない市街地の真ん中に清流の志津川が流れ、川の河口付近で漁師のおばさん3人が貝を採っていた。
一心不乱に作業をされていたため、声をかけることすら躊躇われた。



4)防災対策庁舎外観
南三陸町役場危機管理課の遠藤未希さんが防災無線放送を流しつづけたことで知られる、鉄骨だけの防災対策庁舎。



5)防災対策庁舎の花束
多くの遺族が、無残な防災対策庁舎を取り壊すよう主張するのに対し、震災の記念碑として保存することに向けた署名運動が巻き起こり、町は二分しているという。



6)防災対策庁舎の千羽鶴
なお、防災無線担当の遠藤未希(当時24歳)さんは、現在も行方不明のままだ。



7)防災対策庁舎のおじさん
普段は自宅にいることが多いが、3・11の日は偶々、志津川高野会館に行っていたため、九死に一生を得たと話す地元のおじさん。毎日自転車に乗って線香を手向け来るのだという。いつまでもお元気で──。



8)防災対策庁舎
防災対策庁舎三階には今も放送機器の残骸が見える。遠藤未希さんがマイクを握った放送室は二階にある。



9)防災対策庁舎の階段
防災対策庁舎の屋上に通じる階段。目前に迫る大津波を見て、遠藤未希さんは最後にマイクを置いて、この階段を伝って屋上に上がったはずだ。



10)旧魚市場
岸壁近くの魚市場横にある冷凍施設の巨大な鉄屑の残骸。



11)志津川湾の防波堤
志津川湾の防波堤の海側から撮影。防波堤の鉄筋コンクリートの階段の鉄パイプの手摺りが、津波の引き潮によって海側にまるで飴細工のようにねじ曲がっている!



12)志津川地区
見渡すかぎりの更地に、一人のおばあさんが歩いていた。地面には、家の土台の跡と、なぜか、多くの携帯電話の残骸が砂利とともに落ちていた。



13)クローバー
三陸町の犠牲者は、死者566名、行方不明者310名を数える。
家々が流されたあとの荒野の至るところに、多年草のクローバー(シロツメクサ)の白い花が咲き乱れていた。



14)災害ボランティアセンター
高台のベイサイドアリーナにある、災害ボランティアセンター。近くには、仮設住宅や町役場仮庁舎などもある。



15)JR志津川駅
旧JR志津川駅から、山に向かって20分ほど歩いたところに、JR志津川駅のバス停留所がある。海岸までは徒歩で30分ほど。
無論タクシーなどなく、国道398号を通っているのは復旧作業用の大型ダンプのみ。



16)志津川湾
志津川湾の南側から湾の全景を望む。湾の奥左手に、市街地だった魚市場や防災対策庁舎がある。
その上空を夥しい数のウミネコが飛び交っていた。



17)JR松島海岸駅
「仙台」駅からJR仙石線で 行けるのは、「松島海岸」駅まで。そこから先は代行バスで「矢本」駅へ。



18)JR矢本駅
「矢本」駅の電車の架線(架空電車線)の支柱が津波で倒壊したままだ。
その先は、仙石線の「石巻」駅、石巻線の「前谷地」駅、気仙沼線の「柳津」駅で乗り換え、目的の「志津川」駅へ。

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