『戦争と平和のための原子力』上山明博著▶https://www.amazon.co.jp/dp/B07VN7V53F
[本文より]
福島第一原発を遠望する
上野からJR常磐線に乗り、セイタカアワダチソウが群生する荒地の風景を車窓からぼんやりと眺めながら最終駅の「富岡」に辿り着いた。これより北の「富岡─浪江」間は、〝帰還困難区域〟につき不通だ。改札口を出て、北に歩を進めるとすぐに、堆く積まれた夥しい数の漆黒の群れが行く手を遮った。携帯した線量計をポケットから取り出し、フレコンバッグのひとつにかざすと、毎時「4.02μSv」と表示した。日本の政府が安全の目安として定める限度量、毎時0.23μSv(マイクロシーベルト)の17倍以上の放射線量だ。
野ざらしの放射性廃棄物の山を迂回し、富岡川沿いの小径を川上に向かって西に十五分ほど歩くと、「東京電力廃炉資料館」の看板を掲げたチョコレート色の建物が現れた。原発事故前に東京電力の広報施設のエネルギー館を全面改装し、廃炉資料館として新たにオープンしたと、東京電力の職員と思われるガイドの人は説明した。
一階では、立ち入りを厳しく制限された東京電力福島第一原子力発電所構内の映像を大画面モニターで映し出し、廃炉作業などの最新状況を来館者に公開。二階では、地震発生から電源復旧までの11日間を拡張現実(AR)技術を用いて原発作業員の視点からドキュメント風に紹介していた。その一つ一つを丁寧に解説するガイドの人の話を聞きながら、私は何度も頷くうちに次第に違和感を抱いた。私はひとつ大きく会釈をして逃げるように館を出た。
振り返ると、廃炉資料館は、大量の放射性廃棄物が放置された荒涼とした背後の光景とは到底不釣り合いな、とんがり屋根を冠したお菓子の家のようなメルヘンチックな洋館の姿をしていることにはじめて気が付いた。
私は再び駅に戻り、今度は仏浜をめざして東に十分ほど歩くと、眼前に鈍色の太平洋の夕景が広がった。ここから北へ十キロメートルほど先の陸と海の境界線が溶け合う山陰に、靑白く透きとおった光が靄のようにぼんやりと浮かんでいるのが見えた。怪物のように不気味な光を放つ巨大な構造物の正体を見極めようと、私は目を凝らした──。
平成23年(2011)3月11日14時46分、東日本大地震(東北地方太平洋沖地震)が発生した。
地震発生から丸一日が経過した3月12日15時36分、東京電力福島第一原子力発電所一号機の原子炉建屋が爆発音を轟かせながら大破し、火炎をともなわない透明な水素爆発によって原子炉建屋の上空に白煙が立ち上った。さらに三日後の3月14日11時01分、今度は三号機と四号機の原子炉建屋が爆破し、無数の破片を周囲に吹き飛ばしながら、黒いキノコ雲が上空500メートルの高さに到達した。
爆発の原因は、制御機能を失い高温高圧になった原子炉格納容器から漏れ出した放射能を含んだ水蒸気と水素ガスが原子炉建屋上部に充満し、最終的に水素爆発を起こしたものと思われた。
福島第一原子力発電所のたび重なる水素爆発によって、原子炉格納容器内でつくられた高濃度の放射性物質が一斉に大気中に解き放たれ、折からの風に乗って四方八方に飛散し、東北地方から上信越、関東、中部地方に至る広範な地域に降り注いだ(『原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書』原子力災害対策本部、平成24年6月)。
これより66年前の昭和20年(1945)8月、日本の二つの都市の上空で原子爆弾が相次いで炸裂した。青白い閃光の放射線とともに摂氏200万度の高温が生まれ、1秒後には火球は直径100〜280メートルに膨れ上がり、爆心地の表面温度は摂氏3,000〜4,000度に達した。そして、広島に投下されたウラン235型爆弾は14万人もの罪なき一般市民を殺戮し、他方、長崎に投下されたプルトニウム239型爆弾は7万人以上もの無辜の命を掃滅した。
福島第一原発事故による放射能災害は、広島、長崎に続いて、日本人の生身の身体に降りかかった三度目の人為的な原因による原子力被害となったのである。
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ
原子力に初めて世界の目が向けられたのは、1939年1月のことである。のちにノーベル賞を受賞するドイツの化学者オットー・ハーン(Otto Hahn)とフリッツ・シュトラスマン(Fritz Strassmann)は、天然ウランが核分裂反応を起こすことを発見し、その事実をドイツの科学誌『ナトゥール・ヴィッセンシャフテン(Natur Wissenschaften)』の1939年1月6日号に発表した。核分裂発見の報告は、瞬くうちに世界中に広がり、科学者たちはそのニュースを衝撃をもって受けとめた。
同年10月、フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)第32代米国大統領はウラン諮問委員会を設置し、核兵器開発に向けた研究を始動させた。これがマンハッタン計画による原子爆弾誕生へと繋がり、のちにヒロシマとナガサキに投下されることになる。
ドイツで核分裂が発表された翌年の昭和15年(1940)には、早くも日本で核分裂反応に向けた研究が始まっている。理化学研究所の主任研究員であった仁科芳雄は、この年ウラン235を用いた分離濃縮実験に着手した(「日本における原子爆弾製造に関する研究の回顧」安田武雄『原子力工業 昭和30年7月号』日刊工業新聞社)。
さらに、日本の陸軍では昭和16年4月に理化学研究所の仁科芳雄を中心に原子爆弾開発に向けた研究を開始させ、仁科博士の頭文字を取って「ニ号研究」と呼ばれた(「日本の原爆」『昭和史の天皇 四』読売新聞社編・発行、昭和43年)。
一方、海軍では物理懇談会を組織し、昭和17年7月、「原子爆弾開発の可能性について」を主要な議題として、元大阪帝国大学総長で帝国学士院院長の長岡半太郎をはじめ、理化学研究所の仁科芳雄や京都帝国大学教授の湯川秀樹など、日本の物理学会を代表する博士たちが一堂に会した。この懇談会は十数回行われたが、次第に長岡半太郎老博士の意見が会の大勢を占めるようになる。そして「原子爆弾は明らかに出来るが、米国と雖も今次の戦争に於ては、恐らく原子力活用を実現することは困難ならむ」との結論に到達し、昭和18年3月6日の会合をもって、物理懇談会は解散する(「原子爆弾について」伊藤庸二『機密兵器の全貌』興洋社、昭和27七年)。
そして、運命の日の昭和20年8月6日。広島市の晴れ渡った盛夏の朝の空に一機のB29爆撃機が進入した。午前8時15分、銀色の機体から爆弾が投下され、広島県産業奨励館付近の上空約600メートルの地点で炸裂。次の瞬間、太陽光の数千倍もの凄まじい閃光と秒速440メートルの衝撃波で爆心地近くの人や物はすべて吹き飛ばされ、摂氏3,000度の熱線と高濃度の放射線を浴びて、街路を歩いていた多くの人びとが即死した。爆心から半径500メート以内にいた人や馬や犬は皆、眼球や内臓が飛び出し、1,200メートル以内の人の衣服は焼け失せ、黒焦げになった夥しい数の死体が街角のそこここに吹き溜った。それでも奇跡的に生き残った人びとは、爛れた皮膚を引き摺り、「水をください」と微かにうめき声を漏らしながら炎天下の瓦礫の街を当てもなく彷徨った。
その66年後。平成23年3月12日15時36分、福島原子力発電所一号機の建屋上空にキノコ雲がうず高く立ち上った。数多の放射性降下物(フォールアウト)が人びとの無防備な身体に降り注ぎ、半径20キロメートル圏内に居た10万人以上もの住民が強制的に避難させられた。ヒロシマ、ナガサキに続いて、三番目の被曝地となったフクシマとその近隣地域では、ヒロシマ、ナガサキと同様に、今後永年にわたって癌や白血病、心臓病などの患者数が急増することが懸念され、被災者たちはいつ発症するか分からない恐怖に怯えながら息を潜めて暮らすことを余儀なくされた。
世界初の被爆国がなぜ原発大国になったのか
史上初の原子爆弾を一般市民の頭上に投下され、原子力の脅威を体験した最初の民族である日本人。ヒロシマやナガサキで多くの市民の命が無差別に蹂躙され、阿鼻叫喚の巷を生き延びてきた私たち日本人だが、先人や隣人が味わった原子力にまつわる辛酸な閲歴を顧みることなく、原発立国の道をひたすら進んできた。そして現在、狭小な国土に原子力発電所がところ狭しと林立し、北は北海道の泊原発から南は鹿児島の川内原発まで、日本列島に原子力発電所が54基存在するなど、米、仏に次ぐ世界第三位の原発大国に至っている。
原子力の惨禍を身をもって知る日本で、原子力発電所が容易に容認され、次々と建てられていったのはなぜか。広島と長崎であれほど多くの犠牲を出し、被爆者の悲劇を間近で見聞きしながら、それでも原子力発電所が日本で建設された理由とは何か。それは、大量殺戮を目的とした原子爆弾(軍事利用)と、電力の安定確保に限定した原子力発電所(平和利用)とでは、原子力の用途や目的が根本的に異なるとされたからである。
しかし、地震や津波に遭遇した程度で、いとも簡単に原子力発電所が制御不能となる状況を目の当たりにした現今、原爆と原発は根本的に別物だとするこれまでの認識を改める必要があるだろう。
もとより、広島および長崎の被爆と福島の原発事故を同列に扱うことができないことは分かっている。しかし、原子力は諸刃の刃であることもまた自明である。地震を契機に核の連鎖反応が制御できなくなり、高濃度の放射性物質の大気中への拡散を招き、大勢の住民を被曝させたという結果をみれば、原子爆弾も原子力発電所も、一旦暴走を許せば膨大なエネルギーと放射能を周囲に撒き散らし、取り返しの付かない甚大な被害を招来するという意味で、両者は本質的に同じなのである。「人類と核との共存は不可能なのである」といわれる所以だろう。
事実、原子爆弾がある日突然広島と長崎の数多の住民を被爆させ、その生命と健康と財産を奪ったのと同様に、原子力発電所にひとたび不具合が生じれば機能不全に陥り、大量に放出された放射能の飛散状況を国民に通知することなく多くの住人を無差別に被曝させ、あるいは、汚染食物の摂取によって身体の中から徐々に被曝させ、向後数十年にわたって多くの人びとが甲状腺癌や小児癌、白血病、心筋梗塞などの疾患によって死亡する危険性を飛躍的に増大させた。
広島や長崎で原爆の本当の意味を知る私たち日本人は、原子力の危険性を嫌というほど理解しているはずである。にもかかわらず、なぜ私たちは原爆に反対しながらも、その一方で原発をいとも簡単に受け入れてしまったのか。そして、誰がどのような理由で世界初の被爆国を世界有数の原発大国に至らしめたのか……。それらの疑問を解くために、私は原発大国となった経緯と理由を確かめることを思い立ったのである。〈後略〉
[「第1章 三度目の被曝」より抜萃]
上山明博(ノンフィクション作家)
“Atoms for War and Peace” © Akihiro Ueyama 2019
『戦争と平和のための原子力』▶https://www.amazon.co.jp/dp/B07VN7V53F _(._.)_