『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』上山明博 著、産経新聞出版 刊
(評者=ノンフィクション作家・保阪正康氏、政治学者・片山杜秀氏、歴史学者・山内昌之氏)
「国家と国民の期待を背負った地震学者の信念と葛藤の物語」
保阪 『関東大震災を予知した二人の男』は、関東大震災前、地震予知に尽力した2人の科学者――大森房吉と今村明恒を描いた、いわゆるノンフィクションノベルです。まずは主人公の2人を紹介しましょう。
大森房吉は、明治元(1868)年、福井藩勘定方下役人の家に、8人兄姉の末っ子として生まれます。帝国大学理科大学物理学科(現在の東京大学理学部物理学科)に首席で入学、給費生として地震学の研究を始め、同30年、29歳という若さで地震学教室主任教授となり、同時に震災予防調査会の幹事にも就任します。高性能の「大森式地震計」を発明し、その観測データをもとに地震波を解析、独自に導き出した「大森係数」を用いて、震源までの距離を算出する「大森公式」を発見するなど、“地震学の父”として世界的に有名な科学者でした。
一方の今村明恒は、明治3年生まれ。薩摩藩士の三男で、同24年、大森と同じく帝国大学理科大学物理学科に入学。卒業後は地震学教室の副手として研究に従事し、同34年、大森教授のもとで助教授に就任します。
山内 今村は、2歳年上の大森がいたために、ずっと助教授のままなんですね。しかも助教授就任後も無給だった。「無給の万年助教授」なんて学生に陰口を叩かれるシーンがありますが、実際は、薩摩藩出身の縁故のつてを頼り、中央幼年学校(のちの陸軍士官学校予科)など陸軍教授が本官です。今村だってエリートですが、彼に屈折した感覚を与えているのは、どうも鹿児島弁が通じなかったようなんです。だから、彼は地方出身者のために東京弁を解説した本を書いていた。
片山 そうした不遇のせいもあってか、今村は東京に大地震が起きると予言し、しばしばマスコミにセンセーショナルに取り上げられます。明治39年1月には「今村博士の説き出せる大地震襲来説」(『東京二六新聞』)と大見出しで書かれ物議を醸しました。大森は、その論調を「浮説」として、今村に“これは私の本意ではない”という抗議文を新聞社に送るように諭すのです。また、今村が自説をまとめた本を出版すると、出版社が「東京地方(略)一大激震の襲来」「死傷者の数二十万」などと煽り広告を出して、大騒ぎとなる。そのたびに大森に叱られ、世間からは「ほら吹き」と批判される。ところが、結局、関東大震災が起きると、今村の言っていたことは正しかったとなったんです。
保阪 それで、後世、この2人の評価も反転しました。要するに、今村は苦難に耐えつつ警鐘を鳴らし続け、予知に成功した叩き上げの一流の学者、それに対して大森は、予知もできず今村を邪魔したエリート学者とされてしまった。そうした定説に一石を投じたのが本書の読みどころでしょう。
山内 吉村昭さんの『関東大震災』は、この2人をまさに定型化して描いていますね。
片山 しかし、それは大森に酷でしょうね。大森もやがて来る地震の震源地を相模湾と予見していて、論文として発表もしていた。ただ、時期の予見には慎重で、結果、民衆が目にすることはなかったんです。
山内 大森も今村も、地震を予見できていた点で、そんなに違いはないという本書の見方は、私も間違っていないと思います。
今村が「ほら吹き」と批判され、大森が慎重な姿勢をとったのには、実は当時の大学のあり方を踏まえなくてはなりません。当時の帝大教授と、現在の大学教授とを一緒に考えてはいけない。明治の帝国大学とは、まさに国家を代弁する権威の源泉でした。本書でも、関東大震災発生後、海外出張で留守の大森にかわって、今村が緊急の震災予防調査会の議長を務め、事態の収拾にあたる場面があります。帝大教授とは、国家意思を体現しなくてはならない立場だったのです。そうした立場からすれば、国民にいたずらな不安を与えてはならないという大森の考えは当然でしょうね。
片山 また、本書で印象的だったのが、大森、今村ともに、地震の予知がすぐにでもできるという確信を持っていることです。当時は科学に対する信仰が今以上に強い時代でもあった。
保阪 そうなんですね。私が連想したのは、福来友吉博士の千里眼事件です。東京帝大の助教授が千里眼の実在を証明しようと、度重なる実験を行い、結局、1913(大正2)年に大学を追われてしまった。この背後にあるのは、科学への懐疑ではなく、むしろ心霊などの現象も科学で解明できるという積極的な科学観だった。
ただ本書が惜しまれるのは、会話などに時代があまり感じられないことですね。個人的なことですが、私の父は横浜にいた中学生のとき、大震災で被災しました。「水をくれ」と訴える行き倒れの中国人に水をあげたら、自警団にぶん殴られたというんです。「なぜ水を飲ますんだ」と。中国人はその場で惨殺され、その後、父は二度と横浜には足を踏み入れませんでした。本書では、自警団に襲われかけた今村が「帝大の今村博士だ」と叫んで難を逃れたとさらっと書かれていますが、そんな簡単な話ではなかったと思うんです。推薦者が言うのもなんですが(笑)。
山内 歴史状況の説明にリアリティがない欠点はありますが、この地震大国で今後も地震と付き合わねばならない日本人としては、こういう先人がいたということは知っておくべきだと思いますね。
片山 私は東日本大震災以後、大正期の『震災予防調査会報告』を集めていますが、当時の研究の熱気に驚かされます。今回、私が一番強く感じたのは、大森以来の努力で地震学は長足の進歩を遂げたのに、相変わらず地震予知はできていないという事実ですね。実現が近いと思っていたものがいつまでもできないという点では核融合発電も同じです。核融合までの繋ぎだと称された核分裂発電をいつまでもやって、ついに大事故でしょう。その原因は地震でしょう。いろいろと考えさせられる1冊でした。
(「文藝春秋2013年12月号」文藝春秋BOOK倶楽部・鼎談書評 所載)
➡ 文藝春秋WEB へ(http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/911)
(評者=ノンフィクション作家・保阪正康氏、政治学者・片山杜秀氏、歴史学者・山内昌之氏)
「国家と国民の期待を背負った地震学者の信念と葛藤の物語」
保阪 『関東大震災を予知した二人の男』は、関東大震災前、地震予知に尽力した2人の科学者――大森房吉と今村明恒を描いた、いわゆるノンフィクションノベルです。まずは主人公の2人を紹介しましょう。
大森房吉は、明治元(1868)年、福井藩勘定方下役人の家に、8人兄姉の末っ子として生まれます。帝国大学理科大学物理学科(現在の東京大学理学部物理学科)に首席で入学、給費生として地震学の研究を始め、同30年、29歳という若さで地震学教室主任教授となり、同時に震災予防調査会の幹事にも就任します。高性能の「大森式地震計」を発明し、その観測データをもとに地震波を解析、独自に導き出した「大森係数」を用いて、震源までの距離を算出する「大森公式」を発見するなど、“地震学の父”として世界的に有名な科学者でした。
一方の今村明恒は、明治3年生まれ。薩摩藩士の三男で、同24年、大森と同じく帝国大学理科大学物理学科に入学。卒業後は地震学教室の副手として研究に従事し、同34年、大森教授のもとで助教授に就任します。
山内 今村は、2歳年上の大森がいたために、ずっと助教授のままなんですね。しかも助教授就任後も無給だった。「無給の万年助教授」なんて学生に陰口を叩かれるシーンがありますが、実際は、薩摩藩出身の縁故のつてを頼り、中央幼年学校(のちの陸軍士官学校予科)など陸軍教授が本官です。今村だってエリートですが、彼に屈折した感覚を与えているのは、どうも鹿児島弁が通じなかったようなんです。だから、彼は地方出身者のために東京弁を解説した本を書いていた。
片山 そうした不遇のせいもあってか、今村は東京に大地震が起きると予言し、しばしばマスコミにセンセーショナルに取り上げられます。明治39年1月には「今村博士の説き出せる大地震襲来説」(『東京二六新聞』)と大見出しで書かれ物議を醸しました。大森は、その論調を「浮説」として、今村に“これは私の本意ではない”という抗議文を新聞社に送るように諭すのです。また、今村が自説をまとめた本を出版すると、出版社が「東京地方(略)一大激震の襲来」「死傷者の数二十万」などと煽り広告を出して、大騒ぎとなる。そのたびに大森に叱られ、世間からは「ほら吹き」と批判される。ところが、結局、関東大震災が起きると、今村の言っていたことは正しかったとなったんです。
保阪 それで、後世、この2人の評価も反転しました。要するに、今村は苦難に耐えつつ警鐘を鳴らし続け、予知に成功した叩き上げの一流の学者、それに対して大森は、予知もできず今村を邪魔したエリート学者とされてしまった。そうした定説に一石を投じたのが本書の読みどころでしょう。
山内 吉村昭さんの『関東大震災』は、この2人をまさに定型化して描いていますね。
片山 しかし、それは大森に酷でしょうね。大森もやがて来る地震の震源地を相模湾と予見していて、論文として発表もしていた。ただ、時期の予見には慎重で、結果、民衆が目にすることはなかったんです。
山内 大森も今村も、地震を予見できていた点で、そんなに違いはないという本書の見方は、私も間違っていないと思います。
今村が「ほら吹き」と批判され、大森が慎重な姿勢をとったのには、実は当時の大学のあり方を踏まえなくてはなりません。当時の帝大教授と、現在の大学教授とを一緒に考えてはいけない。明治の帝国大学とは、まさに国家を代弁する権威の源泉でした。本書でも、関東大震災発生後、海外出張で留守の大森にかわって、今村が緊急の震災予防調査会の議長を務め、事態の収拾にあたる場面があります。帝大教授とは、国家意思を体現しなくてはならない立場だったのです。そうした立場からすれば、国民にいたずらな不安を与えてはならないという大森の考えは当然でしょうね。
片山 また、本書で印象的だったのが、大森、今村ともに、地震の予知がすぐにでもできるという確信を持っていることです。当時は科学に対する信仰が今以上に強い時代でもあった。
保阪 そうなんですね。私が連想したのは、福来友吉博士の千里眼事件です。東京帝大の助教授が千里眼の実在を証明しようと、度重なる実験を行い、結局、1913(大正2)年に大学を追われてしまった。この背後にあるのは、科学への懐疑ではなく、むしろ心霊などの現象も科学で解明できるという積極的な科学観だった。
ただ本書が惜しまれるのは、会話などに時代があまり感じられないことですね。個人的なことですが、私の父は横浜にいた中学生のとき、大震災で被災しました。「水をくれ」と訴える行き倒れの中国人に水をあげたら、自警団にぶん殴られたというんです。「なぜ水を飲ますんだ」と。中国人はその場で惨殺され、その後、父は二度と横浜には足を踏み入れませんでした。本書では、自警団に襲われかけた今村が「帝大の今村博士だ」と叫んで難を逃れたとさらっと書かれていますが、そんな簡単な話ではなかったと思うんです。推薦者が言うのもなんですが(笑)。
山内 歴史状況の説明にリアリティがない欠点はありますが、この地震大国で今後も地震と付き合わねばならない日本人としては、こういう先人がいたということは知っておくべきだと思いますね。
片山 私は東日本大震災以後、大正期の『震災予防調査会報告』を集めていますが、当時の研究の熱気に驚かされます。今回、私が一番強く感じたのは、大森以来の努力で地震学は長足の進歩を遂げたのに、相変わらず地震予知はできていないという事実ですね。実現が近いと思っていたものがいつまでもできないという点では核融合発電も同じです。核融合までの繋ぎだと称された核分裂発電をいつまでもやって、ついに大事故でしょう。その原因は地震でしょう。いろいろと考えさせられる1冊でした。
(「文藝春秋2013年12月号」文藝春秋BOOK倶楽部・鼎談書評 所載)
➡ 文藝春秋WEB へ(http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/911)