ブッダ(ここではお釈迦様ね)は教えを文字で残さず、すべて対面で教えを説いていたそうです。
そのため、ブッダが亡くなられてから、弟子たちがブッダがどのような説法をしていたのかを
まとめていきました。
その中で、ブッダの時代のルーツをそのまま守るべきだという保守派(上座部)と、時代に合わせて
ルールを変えていくべきだという改革派(大衆部)の二つに別れていきます。
上座部は(私たち学校で習った)小乗仏教(南伝仏教)と言われ、スリランカ、タイ、カンボジア、
ラオス、ミャンマーなどに伝わっていきました。戒律を厳格に守ることを重んじているもの。
一方、大衆部は(これも学校で習いましたが)大乗仏教(北伝仏教)と言われ、中国、朝鮮半島、
日本、チベット、モンゴル等に伝わり、ブッダの教えを広く大衆に広めることを目指したもの。
ここでアマルも「ふ~ンッ」
日本に伝わった仏教(仏・ブッダの教え)は図らずもブッダの厳しい戒律や教えの世界から
大衆受け(広く伝播)を狙って、いい言い方をすればわかりやすい言葉でいろいろなハードルを低くしたもの。
悪く言えば、ブッダが意図しない形のものを私たちは信じさせられている。
文献によると、西方浄土(いわゆる天国のようなところ)だ、死後の世界がどうだのと
ブッダは一切語られていなかった。
私たちが仏教というものを考えるとき
身近なのが、「仏壇」「お葬式」「お寺さん」「お坊さん」といったところで
「葬式仏教」といったものとしてとらえる人が多いんじゃないかな。
でもブッダはお仏壇やお寺さんにある
ご本尊(信仰、礼拝、祈祷の対象)といった偶像(仏像)に間違っても祈ったり・信仰・崇拝しないよう
固く禁じていました。
そして前回も触れたけど
ブッダ死後、(大乗仏教では)多くの仏教学者によって創作された「お経」、
信者を増やす(布教の)ためにノンフィクション手法を用いて興味を引かれる読み物に仕上げられて
いった「お経」。
純粋にブッダの教えを伝える「お経」から、布教推進のための創作「お経」まである。
そんなことを知ると、我が家にある仏壇のプラスチックご本尊にも
祈る気持ちにどこか疑念を拭いえません。
そもそも我が家は「○○宗で、どうしてその宗派になったのか?」「この宗派のどこが良かったのか?」
そんな疑問もあったのですが
調べてみたら江戸時代の寺請制度(徳川幕府のキリシタン対策)に基づくもので
単にご先祖が最寄りのお寺に所属したというものらしい。
決して「○○宗」の絶対信者であったわけではないみたい。
日本の多くの家庭もそうでしょう。
なんかまた長くなっちゃいそう。
日本の各家庭の仏壇に安置している「ご本尊」、仏像。
仏像と言うのは、本来仏の像、すなわちブッダ(釈迦)の像でなくてはならないはずだと
アマルは考えていました。
それがさまざまな仏像が信仰対象とされているところにアマルは合点がいきませんでした。
調べてみればやはり狭い意味では仏像とは釈迦如来像だけを示しますが、時が経つにつれ、
菩薩や明王あるいは色々の神まで様々な像が仏像と言われるようになっていったようです。
ご本尊の多くは「○○如来(にょらい)」さまが多いのかな?
(決め付けはいけませんが)
このご本尊には(宗派によって信仰・祈祷対象が違いますが)
悟りを開いた・真理に目覚めた境地の「仏の位」の方がおあそばせます。
[奈良仏教]では、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をご本尊に
[平安仏教・鎌倉仏教]では
・釈迦如来(しゃかにょらい)
・阿弥陀如来(あみだにょらい)
・薬師如来(やくしにょらい)
・大日如来(だいにちにょらい) 等がご本尊に あらしゃいます。
そして「○○菩薩」さまがいらっしゃいますが
この方は如来になっていない、まだ悟りをひらくために修行中の身であられる方なんですね。
何しろ仏教における悟りの世界というのは52段階もあって
最高位に「仏覚・無上覚」というところがあって
この最高無上の、仏という覚りを開かれた方を「仏」とか「仏様」と言われるわけです。
【ご参考】仏教における「覚り」って?何を覚るのかといえば、
大宇宙の真理というもので、全ての人が本当の幸福になれる真理としています。
....何やらここまで来るとまさに宗教の世界ですね。
(話を戻しまして)
ですから、菩薩さまは仏覚になっていない修行中の方となります。
私たちの身近にいる、お地蔵様、観音様と言っている方たちはみな菩薩さまなんですね。
・地蔵菩薩
・観音菩薩、千手観音菩薩、十一面観音菩薩
・弥勒菩薩(みろくぼさつ)
・文殊菩薩(もんじゅぼさつ) 等が代表的な菩薩さまになりますかね。
その他、仏像には明王(みょうおう)、天部(てんぶ)などの区分があるけど
ここでは割愛します。
<仏教学者の言葉を借りて、>
ブッダは自分が消滅してからも教祖としての偶像崇拝を徹底的に否定されたのですが、
ブッダが亡くなられた後、とにかく寂しかった弟子たちは、遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)を
礼拝の対象としました。しかし暫らくすると、仏伝図といって、ブッダの誕生や成道、初転法輪など
ブッダの一生における重要な出来事を絵にして礼拝するようになりました。
そのほかにも礼拝には法輪、菩提樹、ブッダの足跡の図形などが用いられています。
この3つには実は共通点があって法輪は仏陀の説法を意味し、菩提樹は仏陀の悟りを得られた場所を示し、
ブッダの足跡はブッダの存在を意味します。
共通点と言うのは、その図形からブッダを想像できると言うことです。そしてブッダその人自身はおもてに
表されていないのです。
仏滅後数百年は弟子たちはブッダの教えを忠実に守りながら、ブッダの面影を求めたのですね。
でも仏滅後5百年して仏像が作られて以降、様子が変わっていきます。
ちょっと本当に長くなってしまったのでこの辺でまた一休みします。
合掌!
(あと1回ぐらいでやめようっと。)
そのため、ブッダが亡くなられてから、弟子たちがブッダがどのような説法をしていたのかを
まとめていきました。
その中で、ブッダの時代のルーツをそのまま守るべきだという保守派(上座部)と、時代に合わせて
ルールを変えていくべきだという改革派(大衆部)の二つに別れていきます。
上座部は(私たち学校で習った)小乗仏教(南伝仏教)と言われ、スリランカ、タイ、カンボジア、
ラオス、ミャンマーなどに伝わっていきました。戒律を厳格に守ることを重んじているもの。
一方、大衆部は(これも学校で習いましたが)大乗仏教(北伝仏教)と言われ、中国、朝鮮半島、
日本、チベット、モンゴル等に伝わり、ブッダの教えを広く大衆に広めることを目指したもの。
ここでアマルも「ふ~ンッ」
日本に伝わった仏教(仏・ブッダの教え)は図らずもブッダの厳しい戒律や教えの世界から
大衆受け(広く伝播)を狙って、いい言い方をすればわかりやすい言葉でいろいろなハードルを低くしたもの。
悪く言えば、ブッダが意図しない形のものを私たちは信じさせられている。
文献によると、西方浄土(いわゆる天国のようなところ)だ、死後の世界がどうだのと
ブッダは一切語られていなかった。
私たちが仏教というものを考えるとき
身近なのが、「仏壇」「お葬式」「お寺さん」「お坊さん」といったところで
「葬式仏教」といったものとしてとらえる人が多いんじゃないかな。
でもブッダはお仏壇やお寺さんにある
ご本尊(信仰、礼拝、祈祷の対象)といった偶像(仏像)に間違っても祈ったり・信仰・崇拝しないよう
固く禁じていました。
そして前回も触れたけど
ブッダ死後、(大乗仏教では)多くの仏教学者によって創作された「お経」、
信者を増やす(布教の)ためにノンフィクション手法を用いて興味を引かれる読み物に仕上げられて
いった「お経」。
純粋にブッダの教えを伝える「お経」から、布教推進のための創作「お経」まである。
そんなことを知ると、我が家にある仏壇のプラスチックご本尊にも
祈る気持ちにどこか疑念を拭いえません。
そもそも我が家は「○○宗で、どうしてその宗派になったのか?」「この宗派のどこが良かったのか?」
そんな疑問もあったのですが
調べてみたら江戸時代の寺請制度(徳川幕府のキリシタン対策)に基づくもので
単にご先祖が最寄りのお寺に所属したというものらしい。
決して「○○宗」の絶対信者であったわけではないみたい。
日本の多くの家庭もそうでしょう。
なんかまた長くなっちゃいそう。
日本の各家庭の仏壇に安置している「ご本尊」、仏像。
仏像と言うのは、本来仏の像、すなわちブッダ(釈迦)の像でなくてはならないはずだと
アマルは考えていました。
それがさまざまな仏像が信仰対象とされているところにアマルは合点がいきませんでした。
調べてみればやはり狭い意味では仏像とは釈迦如来像だけを示しますが、時が経つにつれ、
菩薩や明王あるいは色々の神まで様々な像が仏像と言われるようになっていったようです。
ご本尊の多くは「○○如来(にょらい)」さまが多いのかな?
(決め付けはいけませんが)
このご本尊には(宗派によって信仰・祈祷対象が違いますが)
悟りを開いた・真理に目覚めた境地の「仏の位」の方がおあそばせます。
[奈良仏教]では、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をご本尊に
[平安仏教・鎌倉仏教]では
・釈迦如来(しゃかにょらい)
・阿弥陀如来(あみだにょらい)
・薬師如来(やくしにょらい)
・大日如来(だいにちにょらい) 等がご本尊に あらしゃいます。
そして「○○菩薩」さまがいらっしゃいますが
この方は如来になっていない、まだ悟りをひらくために修行中の身であられる方なんですね。
何しろ仏教における悟りの世界というのは52段階もあって
最高位に「仏覚・無上覚」というところがあって
この最高無上の、仏という覚りを開かれた方を「仏」とか「仏様」と言われるわけです。
【ご参考】仏教における「覚り」って?何を覚るのかといえば、
大宇宙の真理というもので、全ての人が本当の幸福になれる真理としています。
....何やらここまで来るとまさに宗教の世界ですね。
(話を戻しまして)
ですから、菩薩さまは仏覚になっていない修行中の方となります。
私たちの身近にいる、お地蔵様、観音様と言っている方たちはみな菩薩さまなんですね。
・地蔵菩薩
・観音菩薩、千手観音菩薩、十一面観音菩薩
・弥勒菩薩(みろくぼさつ)
・文殊菩薩(もんじゅぼさつ) 等が代表的な菩薩さまになりますかね。
その他、仏像には明王(みょうおう)、天部(てんぶ)などの区分があるけど
ここでは割愛します。
<仏教学者の言葉を借りて、>
ブッダは自分が消滅してからも教祖としての偶像崇拝を徹底的に否定されたのですが、
ブッダが亡くなられた後、とにかく寂しかった弟子たちは、遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)を
礼拝の対象としました。しかし暫らくすると、仏伝図といって、ブッダの誕生や成道、初転法輪など
ブッダの一生における重要な出来事を絵にして礼拝するようになりました。
そのほかにも礼拝には法輪、菩提樹、ブッダの足跡の図形などが用いられています。
この3つには実は共通点があって法輪は仏陀の説法を意味し、菩提樹は仏陀の悟りを得られた場所を示し、
ブッダの足跡はブッダの存在を意味します。
共通点と言うのは、その図形からブッダを想像できると言うことです。そしてブッダその人自身はおもてに
表されていないのです。
仏滅後数百年は弟子たちはブッダの教えを忠実に守りながら、ブッダの面影を求めたのですね。
でも仏滅後5百年して仏像が作られて以降、様子が変わっていきます。
ちょっと本当に長くなってしまったのでこの辺でまた一休みします。
合掌!
(あと1回ぐらいでやめようっと。)