花魁とは、もともとは姉女郎(先輩格の女郎)のことを指したが、しだいに上位の女郎の意味となった。
禿(かむろ)が「おいらの所の姉さん」「おいらんちの姉さん」と呼んでいたのが訛って“おいらん(花魁)”と呼ばれるようになった。
*禿(かむろ・かぶろ)…花魁に付いて身辺の雑用をしながら遊女になるため修行をしている少女。資料集「禿と新造」
“太夫(たゆう)”とは、花魁の最高位の格。もともとは京都嶋原で芸妓の最高位のことを指したが、のちにその言葉が吉原にも伝わり、花魁の最高位をあらわす意味へと変わっていった。 かつて吉原にも高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。人気の太夫・花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。
宝暦年間(18世紀中ごろ)に吉原の太夫は姿を消した。
添付画像は吉原最後の太夫といわれる「玉屋の“花紫太夫”」(歌麿筆)
■花魁遊びのしきたり (「浅草吉原振興協会」資料に加筆)
下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、花魁を揚げる(茶屋で遊ぶ)には様々なしきたりが存在していた。
花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。
このため、茶屋で豪勢に遊び茶屋に金を落とす必要があった(花魁を呼び一夜を共にするためには茶屋に三百両もの揚代(あげだい;遊女へ支払う代金)を払う必要があった。一両は現在の十万円位)
座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。
花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
●初会(つまり一回目)、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。
この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。
一方、客が気に入られれば煙草を一服まわし花魁は出ていく。
(初回に床入れはかなわない)
嶋原の太夫も吉原の花魁も、禿(かむろ)をはじめ付き人たちの衣服・櫛道具その他すべてを姉女郎である花魁たちが負担することになっていたので、扶養する妹分たちの面倒を見るためにも高額な揚代は必要だった
客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
●裏(つまり二回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
コレを裏を返すと言い、裏を返さぬは恥、裏を返せぬは花魁の恥とも言われた。
この裏を返すとは花魁に客が付く(指名される)と店の木札(名を書いた木の札)を裏返す事からも来ている。
通常は、三会目(三回目)でようやく床入れ出来るようになった。
馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされご法度だった。
(もし見つかれば手痛い懲罰が待っていた)
他の花魁や遊女に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った(他の花魁や遊女と遊ぶことを許すのはタブーのため)。
*吉原大門…吉原の出入り口は大門だけであった。遊廓(ゆうかく)は、治安や風紀を公権力側が統制するため一区画にまとめられていた。公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲み、泥棒や遊女たちの逃亡を防いだ。(「廓」は「城郭」と同じ、囲われた区画を意味する)明け六つ(午前六時)に開かれ、夜四つ(午後十時)には閉じられていたが、遊廓の営業は深夜○時まで続き、客の出入りは横の木戸から行われていた。
客は金を支払って詫びを入れたという。
花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。
その際は名代(みょうだい)といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。
一方で、通常の揚代金を取られることになる。
その世界には厳しい掟(ルール)、しきたりが様々あった。
明和五(1767)年に刊行された酔郷散人の『吉原大全』によれば、「心さっぱりとしていてイヤミなく、明るくお洒落で洗練され、人品高上で風流で功をあせらず、たっぷり用意した金をおしみなく遊びに使い切る」人物が最高の通人であるという。
それが出来なければ野暮と呼ばれても仕方なかったのである。
「心さっぱりとしてイヤミなく、明るくお洒落なチョイ悪おやじ、人品高上を忘れず、あるお金はおしみなく遊びに使い切る」...これはアマル流の生き方。 オソマツ
禿(かむろ)が「おいらの所の姉さん」「おいらんちの姉さん」と呼んでいたのが訛って“おいらん(花魁)”と呼ばれるようになった。
*禿(かむろ・かぶろ)…花魁に付いて身辺の雑用をしながら遊女になるため修行をしている少女。資料集「禿と新造」
“太夫(たゆう)”とは、花魁の最高位の格。もともとは京都嶋原で芸妓の最高位のことを指したが、のちにその言葉が吉原にも伝わり、花魁の最高位をあらわす意味へと変わっていった。 かつて吉原にも高尾太夫、揚巻太夫など、伝説的な遊女の名が伝えられている。人気の太夫・花魁は「遊女評判記」などの文学作品に採り上げられたり、浮世絵に描かれることもあった。
宝暦年間(18世紀中ごろ)に吉原の太夫は姿を消した。
添付画像は吉原最後の太夫といわれる「玉屋の“花紫太夫”」(歌麿筆)
■花魁遊びのしきたり (「浅草吉原振興協会」資料に加筆)
下位の遊女と一夜を共にするのとは異なり、花魁を揚げる(茶屋で遊ぶ)には様々なしきたりが存在していた。
花魁には、茶屋を通して取り次いでもらわなければならなかった。
このため、茶屋で豪勢に遊び茶屋に金を落とす必要があった(花魁を呼び一夜を共にするためには茶屋に三百両もの揚代(あげだい;遊女へ支払う代金)を払う必要があった。一両は現在の十万円位)
座敷では、花魁は上座に座り、客は常に下座に座っていた。
花魁クラスの遊女は客よりも上位だったのである。
●初会(つまり一回目)、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなかった。
この際、客は品定めをされ、花魁にふさわしくないと思われたらその花魁とは付き合うことができなかった。
一方、客が気に入られれば煙草を一服まわし花魁は出ていく。
(初回に床入れはかなわない)
嶋原の太夫も吉原の花魁も、禿(かむろ)をはじめ付き人たちの衣服・櫛道具その他すべてを姉女郎である花魁たちが負担することになっていたので、扶養する妹分たちの面倒を見るためにも高額な揚代は必要だった
客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示す必要があった。
●裏(つまり二回目)には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じである。
コレを裏を返すと言い、裏を返さぬは恥、裏を返せぬは花魁の恥とも言われた。
この裏を返すとは花魁に客が付く(指名される)と店の木札(名を書いた木の札)を裏返す事からも来ている。
通常は、三会目(三回目)でようやく床入れ出来るようになった。
馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされご法度だった。
(もし見つかれば手痛い懲罰が待っていた)
他の花魁や遊女に通ったことがわかると、花魁は客を吉原大門のあたりで捕らえ、茶屋に苦情を言った(他の花魁や遊女と遊ぶことを許すのはタブーのため)。
*吉原大門…吉原の出入り口は大門だけであった。遊廓(ゆうかく)は、治安や風紀を公権力側が統制するため一区画にまとめられていた。公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲み、泥棒や遊女たちの逃亡を防いだ。(「廓」は「城郭」と同じ、囲われた区画を意味する)明け六つ(午前六時)に開かれ、夜四つ(午後十時)には閉じられていたが、遊廓の営業は深夜○時まで続き、客の出入りは横の木戸から行われていた。
客は金を支払って詫びを入れたという。
花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名がかち合うこともある。
その際は名代(みょうだい)といって新造が相手をするが、新造とは床入れ出来ない。
一方で、通常の揚代金を取られることになる。
その世界には厳しい掟(ルール)、しきたりが様々あった。
明和五(1767)年に刊行された酔郷散人の『吉原大全』によれば、「心さっぱりとしていてイヤミなく、明るくお洒落で洗練され、人品高上で風流で功をあせらず、たっぷり用意した金をおしみなく遊びに使い切る」人物が最高の通人であるという。
それが出来なければ野暮と呼ばれても仕方なかったのである。
「心さっぱりとしてイヤミなく、明るくお洒落なチョイ悪おやじ、人品高上を忘れず、あるお金はおしみなく遊びに使い切る」...これはアマル流の生き方。 オソマツ
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