Belle Epoque

美しい空間と、美しい時間

その美しいデコルテは世界を受け止める

2011-10-05 | esthe...kirei wo get
精神的な充実に自信がないと、美容は、外見が「年齢より若く見えるようになりたい」、という外側ケアだけの目的に向かってしまいます。
もちろん肌の手入れ度合いは生活の充実感と繋がっていますから、乾燥して黄ばんだ肌、たるんだ頬やデコルテなどは避けるのが大事と思います。素肌と筋肉と内臓の手入れの成功は、正しく方法を選べるという意味で、知性のなせる業でもあります。
精神的な充実とは何かというと、やりたいことが明確にあり、また、できるだけのことを精一杯やっている。という、自分に対する誠実さのことをいうように思います。
あと先ず大切なのは、自分はこう在ろう、という「意思決定」があることだと思う。

昨日タイのニューハーフさんたちの番組を見ていて、そのおんならしさに見惚れました。
タイでは、第3の性を認めながらも、学校教育の場では男が女の格好をすることを認めていないので、精神のみ女の子、の少年たちは一見ふつうの少年です。
しかしいったん対話を始めると、その色気は同年齢の少女が遠く及ばないレベル。
男の外見なのに、女に見える、という人は、動作の効用を素晴らしく理解しています。
見ていて感心したのは、座り方や姿勢、肩の動かし方で、ごつい男性でも繊細な女性の心を体現できること。女形の格好をしなくても。
その意識は、肩先と顎と首の角度の絶妙さにあり、デコルテが魅力的に陰翳豊かでした。

心だけ少女の、体だけ少女との違いは、
「自分は男ではなく女である」
ことを、自分で決めているところ。同時に男でもあることも自然に受け容れている、だからとても懐深そうな印象を受けました。

On ne nait pas femme:on le devient.(人は女に生まれるのではない、女になるのだ。)

というSimone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoirの言葉を、つくづく思いだしました。
女がオバサンになるのは、女であることを忘れてしまったからなんですよね・・・。

日本で「女」や女らしさというと、キレイな格好で色気一本やり、みたいに思われがちですし、わたしもそうとしか理解できなかったときがありました。
しかし、
感じ良くキレイである=細かいところに丁寧に心を配る 
ってことですから、「女」の「綺麗」は、自分も周りも心豊かにする、最高の財産なんだと思います。
実際のところ、どんな時でも女でいることっていろんな意味ですーごく大変で、オバサンであったほうが、本人(だけ)が生きやすいものでしょう。
オバサンという人種は、「わたしはオバサンになる」という意思決定をしているわけではない、女脱落者です。
たとえば、いくら素敵なメイク技術があっても、電車のなかで化粧する女子高生、大学生女子、社会人女性は、ただの女脱落者です。

何が言いたいかというと、「理想の人間像」を持ってそこへ歩んでいることが、性別なんかは関係なく、人の豊かさなんだなあということ。
中身が女で体が男の子、のなる「女」は、生身の女性を目指しているわけではなく、自らの理想で内外を作り上げた、架空の人間です。
だから、その理想がセンス良いものならば、まるで人間そのものが芸術作品で、夢のように美しい。
この「作り上げる」、という切磋琢磨において、ほとんどの生身の女は、ニューハーフさんたちに負けている、と実感します。
わたしもね。

狭い性のワクをあっさり超えていく自由さは、眩しいです。
きっとそれは性に限らないから。



photo・・・Diane von Furstenberg

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