web業界の重鎮と、おいしいもの頂きながら、「オフ会」。
文字通り、じかに会って生身の言葉同士で、会話をするわけです。
書き言葉じゃ伝わらないことはあまりにも多い。
私は、会って話をすることがいちばん好きです。
webと活字の世界で日々言葉を操り書籍として発行する、そんなお仕事をするその方は、書き方と同様、毎回、言葉を丁寧に選びつつ、確実な意味だけをきちんと相手に伝えようと真摯な話し方をなさる。
口からも書き方からも、適確でない言葉を安易に発して失敗した経験が多々痛い自分には、いつも大変学びが多い会合です。
書き言葉には、読まれる相手がセットでついてくる。(たとえそれが自分自身だけであっても)
話し言葉には、聴く相手が。
常に、相手あってこそ、私たちは言葉をつむぐ。
だから、それが感情に任せた取り返しのつかないものであってはならない、
不快な印象を与えるものであってはならない、
と、冷静なときには心がけつつも、そのたがが簡単に外れる瞬間は、意外と多く訪れる。
また、その受け止め方・発し方に、度合いの個人差があるから、意識していてもそう出来ていないこともあると思う、自分では精一杯誠意を込めていても。
言葉に傷つく人は多い。
というか、心を傷つけるものの代表格が言葉。
『ソトコト』読者の方にはお馴染み・『健康方程式』の井上先生から最近頂いたメッセージの中にも、
「不幸は言語感染、だからそういう人に近づいてはいけない」
というフレーズがあった。
もっともだ。全くそうだと思いました。
が、相手に甘える気持ちが傷を与えていることも多く、つまり親しい間柄だからこそ、言葉が殺傷能力の高さに比例することもある。
実際、自分(:鈍感な人間の代表例として)も、心理的距離が近くない相手からどんなことを言われようとも、たいして気にならない。
黙ったまま、ますます相手との距離が遠くなるだけ。
が、反面、近い相手にはコントロールが利かない。メールの言葉に一人でわんわん泣くし、逆にかっとなって心にもないこと言ったりする最低なときもありました。
可愛さ余って憎さ100倍!というやつですね。要注意。ほんとに要注意。
(まあそんなの10年にいっぺんくらいですけど)
web界重鎮のその方は、最近、ネット上において書き言葉だけのやり取りでヒートアップする、見知らぬ同士の対立現象をいかにして解決するかが課題だ、と口にされる。
誰もが気軽にwebの世界を行き来するからこそ、最低限のルールを「教育」する何かがこれから必要だと。
これは、親しい間柄で交わされる愛憎の言葉のやりとりの全然手前にあるもの。
ある種の人が当然と思って気をつけることを、また別の人々は無視して乗り越えてくる、という意識のギャップを、どうにかしてニュートラルな線に近づけられないだろうか、
それはすごく大切な課題だと思う。
相手の顔が見えないゆえに、こうしてweb上に何かを書くことを、ブラックホールに向けて好きに言葉を発しているような錯覚を持っていたことが、自分にもありました。
でも、実際は違う。
生身の人間が誰かしらそれを読み、ときに自分のことだろうかと胸を秘かに痛めることがある。それもまた孤独な感覚だったりする。
ただの悪口の書き込みにやみくもに賛同する人はほとんどいず、悪意を発した人は自然に淘汰されていくような気がするけれども、それは誰にとっても解決になっていない、誰かの胸に相変わらず疼く痛い出来事のまま。
距離感について、また言葉を発する現実感について、自覚を持つことの大切さを、あらためて教えて頂きました。
文字通り、じかに会って生身の言葉同士で、会話をするわけです。
書き言葉じゃ伝わらないことはあまりにも多い。
私は、会って話をすることがいちばん好きです。
webと活字の世界で日々言葉を操り書籍として発行する、そんなお仕事をするその方は、書き方と同様、毎回、言葉を丁寧に選びつつ、確実な意味だけをきちんと相手に伝えようと真摯な話し方をなさる。
口からも書き方からも、適確でない言葉を安易に発して失敗した経験が多々痛い自分には、いつも大変学びが多い会合です。
書き言葉には、読まれる相手がセットでついてくる。(たとえそれが自分自身だけであっても)
話し言葉には、聴く相手が。
常に、相手あってこそ、私たちは言葉をつむぐ。
だから、それが感情に任せた取り返しのつかないものであってはならない、
不快な印象を与えるものであってはならない、
と、冷静なときには心がけつつも、そのたがが簡単に外れる瞬間は、意外と多く訪れる。
また、その受け止め方・発し方に、度合いの個人差があるから、意識していてもそう出来ていないこともあると思う、自分では精一杯誠意を込めていても。
言葉に傷つく人は多い。
というか、心を傷つけるものの代表格が言葉。
『ソトコト』読者の方にはお馴染み・『健康方程式』の井上先生から最近頂いたメッセージの中にも、
「不幸は言語感染、だからそういう人に近づいてはいけない」
というフレーズがあった。
もっともだ。全くそうだと思いました。
が、相手に甘える気持ちが傷を与えていることも多く、つまり親しい間柄だからこそ、言葉が殺傷能力の高さに比例することもある。
実際、自分(:鈍感な人間の代表例として)も、心理的距離が近くない相手からどんなことを言われようとも、たいして気にならない。
黙ったまま、ますます相手との距離が遠くなるだけ。
が、反面、近い相手にはコントロールが利かない。メールの言葉に一人でわんわん泣くし、逆にかっとなって心にもないこと言ったりする最低なときもありました。
可愛さ余って憎さ100倍!というやつですね。要注意。ほんとに要注意。
(まあそんなの10年にいっぺんくらいですけど)
web界重鎮のその方は、最近、ネット上において書き言葉だけのやり取りでヒートアップする、見知らぬ同士の対立現象をいかにして解決するかが課題だ、と口にされる。
誰もが気軽にwebの世界を行き来するからこそ、最低限のルールを「教育」する何かがこれから必要だと。
これは、親しい間柄で交わされる愛憎の言葉のやりとりの全然手前にあるもの。
ある種の人が当然と思って気をつけることを、また別の人々は無視して乗り越えてくる、という意識のギャップを、どうにかしてニュートラルな線に近づけられないだろうか、
それはすごく大切な課題だと思う。
相手の顔が見えないゆえに、こうしてweb上に何かを書くことを、ブラックホールに向けて好きに言葉を発しているような錯覚を持っていたことが、自分にもありました。
でも、実際は違う。
生身の人間が誰かしらそれを読み、ときに自分のことだろうかと胸を秘かに痛めることがある。それもまた孤独な感覚だったりする。
ただの悪口の書き込みにやみくもに賛同する人はほとんどいず、悪意を発した人は自然に淘汰されていくような気がするけれども、それは誰にとっても解決になっていない、誰かの胸に相変わらず疼く痛い出来事のまま。
距離感について、また言葉を発する現実感について、自覚を持つことの大切さを、あらためて教えて頂きました。
あたしもつい最近、Web上でもそういうことを感じました。
たしかに自分のかく言葉は、そしてこういう自分のスペースは、自分のものだけれど、だからってそこで他人が目にして胸を痛めるようなことを書いていいはずがない!
っておもって、もの凄く腹がたちました。
でも絶対「言霊」はありだと信じています。
相手を傷つける事を目的に、言葉の中にマイナスエネルギーを込めるような事をすれば、絶対自分自身に跳ね返る。
miさまの言葉に勇気をもらうあたしを含めた多くの読者が
今日のmiさまの言葉にきっと襟をただしただろうと思います。
いつだって誰かを暖めるために、言葉を使っていきたいですよね。
自分にも反省すべき過去があるので、これについてはほんとにえらそうなこと言えた身ではないのですが。。
言霊、自分に返ってくるというのは、だからこそ実感します。
ほんとにそうです。
そして、自分を好きになれないという罰がもれなくついてきます。
自分を省みて叱咤するのはいくらやってもいいと思うのですが。
けど他人に感情的に向かうのはまずいです、ほんとに。。
赤の他人だとしても、読むのつらくなるんですよね。
夜子さまのように、常に温かく芯のぶれない言葉の使い手になりたいと、今は努力しています。
どうぞ思う存分オンナ道、満喫なさってきてくださいね!!(≧▽≦)b
気持ちのデトックス完了、というか・・・。
まったくもっていい同窓会!っていう満足感です。
そうそう、ご心配ありがとうございます!先日の夜更かし後は無事時間に起きられました!なんたってその日は、午後まで寝てましたので・・・(・・;)
とてもぐっとくる記事で読み入ってしまいました。
傷つける行為というのは
言葉を持ってすればいとも簡単なものですよね。
だからこそ、相手を思いやる言葉というものの
大切さ、大事さ、があるのだと思いました。
こちらの記事、いつか引用させていただいても
よろしいでしょうか?
拙文で恐縮ですが、お申し出ありがとうございます!
なにかのお役に立てれば、うれしいです。リンク元のみ明記して下されば(以前、見知らぬ人の無断コピーに、ええ!っと思ったことがあり。。)、どうぞいつでも!