Belle Epoque

美しい空間と、美しい時間

もう取り戻せない時間

2010-10-15 | rayonnage...hondana
いろいろなやりとりの末に、さらに刺激され、片岡義男さんの本をふたたび読み返し始めています。


かつて小学校の途中から高校まで、通学に片道1.5時間を所要する、という環境にいました。
学校の帰りに駅の本屋で片岡義男さんの本を買っては帰りの電車の中で読む、次の日の休み時間も読む、ということを続けているうちに、ずいぶん文庫本はたまり、実家の本棚には今も、幅1.5メートルくらいの長さに、あの真っ赤な背表紙がずらっと並んでいます。

中学、高校とフルに読み続けて、あるときぱたっと読まなくなりました。
大学受験があったのとか、大学生になってからは違うことに興味が向きだしたりとか、単純に飽きたのとか、いろいろ理由はありましたが、とにかく18歳から今まで、全然、片岡義男作品とご無沙汰していました。
まあ、飽きたというのももっともで、小説の世界から空想できることは中高6年間でし尽くしてしまい、あとは実際に自分自身の体験をしてみなければわからないことだらけになったから。

中高時代は、それ以外にも山田詠美作品を買ったり、学校の図書室にも通いつめて、シガナオヤ氏、アベコウボウ氏、タニザキ氏、ミタマサヒロ氏、ミシマユキオ氏などあるものを片っ端から読んでいましたが、
大学、就職と進むにつれて、読書量は少なくなり、選ぶものの中身もスカスカになっていく一方だったと思う。
読むべき本がわからない時期もありました。

そして、30代になった今、shioさんから頂いたご本をきっかけに、ふたたび、片岡ワールドへ戻りました。
戻る、というより、再発見することの連続で、今回の読書体験はとても有意義でした。
自分の人生を辿り返してみたり、そしてこれからどうしたらいいのか、を模索する良いきっかけになりました。
けっこう未読の本がたくさんだったことも、発見、かつ嬉しいことでした。

『きみを愛するトースト』も、実は未読で、昨日一気に読み上げたのですが、片岡ワールドの種明かしがたくさん詰まった一冊でした。
彼の世界は一貫して変化しない様子ですが、今読んで新しい、というか、20年前からもうこんなことを言っていたのか、とびっくりしました。
小説の作り方についても「あー、そうだったのか!」がありましたし、
女性の社会進出とそれを阻む男社会の構造、なんて、あらかじめこんなに明晰に拾い上げられていたのだ。

片岡作品が流行していた時代をリアルタイムには知らないのですが、それにしても、こういうものが流行していたにも関わらず、どうして日本社会はプラスに変化していないのかと少なからず訝しく思います。

そして、個人的に嬉しかったこと。
それは片岡ワールドはいかにしてできたのか、という彼自身の秘密について、ようやく腑に落ち、答えを知ったことです。

それはシンプルで、
「子どもの頃、自然そのものの野山の中で、遊びに遊んだ」
こと。そうすると、一生涯、ぜんぶの出来事(仕事含め)を、「真剣な遊び」として愉しめるようなのです。

遊んだ少年時代のエピソードは有名なので、前から知ってはいたのですが、今までは、いまいちピンときていなかった。
木登りくらいするでしょ、森の中走るくらいするでしょ、虫採ったり、海に潜ったりくらい、誰でもするでしょ、・・・あんまり特別な影響はないんじゃない?みたいに。

今は納得する、
その遊び方は半端なかったのだ。

自然の中で本気で遊ぶというのはどういうことか、その結果どんな人間ができあがるのか、というのを知ったのは、結婚相手と暮らすようになってからです。
夫は、実はいろいろ片岡義男さんに似ている。(理想に描き続けた相手と結婚できたのかもしれないわねー^^)
一番似ているところは、徹底して肝が据わっていること、徹底して思考が自由(あらゆる常識に一切とらわれない)なところ、いつでも5歳の少年のように希望と気力に満ちていること。

その自由さ、強さはいかにして備わったのか?と彼らについて思っていたら、散々遊んだという幼少時につよい共通点がありました。
しかも、その遊び方が想像を絶したという箇所。
夫も野山の中で時に生死の危険にさらされ(!)ながら、「げーが出るくらい」、真剣に遊んだらしい。
関東平野生まれ育ちののほほん暮らしな自分にはそれがよくわからなかったけど、
京都の山と川の豊かさに、この頃じかに触れるようになって、
「幼児やら少年が遊ぶのに、ここは危ないんじゃないかな」
という場所がいっぱいあることが分かってきました。
でも、大人の目を盗んで遊んだのね。荒れる川の水深く潜って、手製のモリで川魚を突いたり、さらにそれをそのへんの料亭に売ったりもしていたらしい。


大人が助けに来られない場所で、自分たちが発明した冒険をすること。
中でも、
命の危険を感じる体験をしたかどうか、
というのがかなり大事で、人格形成に深くかかわってくるんだなと思います。


大人が買ってくれたおもちゃで遊んでいると、年齢を重ねても、やっぱり誰かの作った流行に踊らされる。
小さい時から塾に行かされまくっても、誰かの作ったテストでしか、成果を発揮できない。あるいは、優秀な人材ともてはやされながら、会社でずっと下働き。


でも、それに気がついたところで、自由人になるには、大人になってからでは遅いのです。
小さい頃、自然のなかから自分でおもちゃを作りだしてきた体験がないと、自分で仕事を作れるようにはならないのです。
そう実感した、ちょっと切ない時間でもありました。

取り戻せない時間、と寂しく思うのは、そうした原体験の豊富さ。
小さい子たちには、勉強するより、とにかく傷だらけになってでも、自然の中で遊びまくってほしいなーと思います。



*追記

①思い出したことメモ、
そういえば最初は、三島由紀夫を読んでいるときにあんまりにも息苦しくって、チェイサーで片岡作品を読んでいたんだわ。

②幼少時に思い切り遊んだというのだけでは足りないらしい、
さらに「学校の席でじっと座っていることが苦痛だった」という積極的なイライラの感情が二人ともあった様子

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