![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/25/226d1bce9329015a005dc3ca3edaea3d.jpg)
東京都現代美術館にて開催されていた、カルティエ現代美術財団コレクション展の印象が、鑑賞後数日してもよみがえる。
その印象の輪郭は、
カルティエの選択らしく、ラインの美しいデザイン、に心地良く囲まれた体験であり、
それぞれが色とりどりのキャンディのようにカラフルで元気のいい、
というものなのだが、よくよく思いをこらしてみると、頭の芯、内臓の壁に届くような、ダイレクトで深いもの、でもある。
綺麗なだけじゃなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b7/790f502d68ad718f98d89ef35f78733c.jpg)
「綺麗」という観念も主観的なものだけど、
”なぜそれを綺麗と思うのか?”、
”綺麗に内包されている何かが自分と繋がりあうからだ。持っていたり、切望していたり”
という意思の方向であることをあらためて感じた。
綺麗なビジュアルが多くて見惚れたけれど、それだけじゃなく、そのカタチのなかにある、成り立ちの概念にまで、自然と思いを馳せさせる展覧会だった。
つまり、「当たり前」という無意識の感覚をつっついてきて、決して「当たり前」なことなんてないんだと認識させてくれる空間だった。
なぜかというと、「当たり前」に存在している色んなもののカタチが、優雅にデフォルメされて、目の前に、「これでもか!」と迫ってきたのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/38/26b638bc924a4c9c96ecb7d530f8260c.jpg)
↑この可愛らしいお庭は、サイズは現実的ですが、全部がきらきらとビーズで作られているのです!虫までちゃんといます・・・
当たり前にいつも目にしているもの、
たとえば、いつも会う人の顔立ちや姿、文字、歴史的建造物、
これらの「サイズ」や「在り処」、「素材」が変わっただけで、私たちはもう、気を惹かれ、また混乱する。
身近な例で言うと、自分自身の生活環境が変わったら、いろんなことをまた作り出し、見直さざるを得ない。
人との関係だってそうだ、
何か変化が起きたり、新しい事実が発覚したりしたら、それまでその人に対して抱いていた印象が豹変する、なんてこともざらにあるよね・・・。
「当たり前」は、視点によって、全然「当たり前」じゃないものへ変身してしまう。
自分の持つ「認識」なんて、はかなくってもろいものなのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ab/064da1ca305379b1661110e76ce1fc42.jpg)
↑この人のサイズなんて、通常の何倍もあります、圧巻。
いちばん印象に残ったのは、大きな一部屋をまるまる使った、シンプルな展示だった。
四角いだだっ広いスペースの対角線を、細い、長ーい机が渡っている。
その遠い端と端に、同じ人物が向かい合って座り、一方は白い格好、片方は黒い格好をしている。
それぞれの目の前にマイクがあり、それぞれが言葉を発している。
発する言葉は、交わらない。
交わるかのように見えて、また乱れあう。
彼の声は、がらんとした部屋中に響き渡る。こだまするように。
この人物は両方とも作者の分身であり、自身の「白い」部分と「黒い」部分なのだという。
わたしは今、この人の最小限にデフォルメされた、頭の中の景色の一部になっている。
時に白い方は沈黙し、黒い方が活発に声を発し続ける。
逆もある。
なんだか、すごくよくわかるな・・・
と思ってしまったのでした。
自分の中で、矛盾する複数の声のせめぎ合いに悩むこと、思い出しませんか。
自分の中の「当たり前」をぶち壊され、新しいものが出てくる瞬間の快感。
蝉の羽化のように。
これに勝る悦びはなかなかない。
全体を見終わって、そう思いました。
いつだって、問題は視点なのだ。
どこから物事を見ることができるか、ということなのだ。
出展作品のビジュアルを、解説付きで観たい?それなら、→こちらへ・・・![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)
その印象の輪郭は、
カルティエの選択らしく、ラインの美しいデザイン、に心地良く囲まれた体験であり、
それぞれが色とりどりのキャンディのようにカラフルで元気のいい、
というものなのだが、よくよく思いをこらしてみると、頭の芯、内臓の壁に届くような、ダイレクトで深いもの、でもある。
綺麗なだけじゃなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b7/790f502d68ad718f98d89ef35f78733c.jpg)
「綺麗」という観念も主観的なものだけど、
”なぜそれを綺麗と思うのか?”、
”綺麗に内包されている何かが自分と繋がりあうからだ。持っていたり、切望していたり”
という意思の方向であることをあらためて感じた。
綺麗なビジュアルが多くて見惚れたけれど、それだけじゃなく、そのカタチのなかにある、成り立ちの概念にまで、自然と思いを馳せさせる展覧会だった。
つまり、「当たり前」という無意識の感覚をつっついてきて、決して「当たり前」なことなんてないんだと認識させてくれる空間だった。
なぜかというと、「当たり前」に存在している色んなもののカタチが、優雅にデフォルメされて、目の前に、「これでもか!」と迫ってきたのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/38/26b638bc924a4c9c96ecb7d530f8260c.jpg)
↑この可愛らしいお庭は、サイズは現実的ですが、全部がきらきらとビーズで作られているのです!虫までちゃんといます・・・
当たり前にいつも目にしているもの、
たとえば、いつも会う人の顔立ちや姿、文字、歴史的建造物、
これらの「サイズ」や「在り処」、「素材」が変わっただけで、私たちはもう、気を惹かれ、また混乱する。
身近な例で言うと、自分自身の生活環境が変わったら、いろんなことをまた作り出し、見直さざるを得ない。
人との関係だってそうだ、
何か変化が起きたり、新しい事実が発覚したりしたら、それまでその人に対して抱いていた印象が豹変する、なんてこともざらにあるよね・・・。
「当たり前」は、視点によって、全然「当たり前」じゃないものへ変身してしまう。
自分の持つ「認識」なんて、はかなくってもろいものなのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ab/064da1ca305379b1661110e76ce1fc42.jpg)
↑この人のサイズなんて、通常の何倍もあります、圧巻。
いちばん印象に残ったのは、大きな一部屋をまるまる使った、シンプルな展示だった。
四角いだだっ広いスペースの対角線を、細い、長ーい机が渡っている。
その遠い端と端に、同じ人物が向かい合って座り、一方は白い格好、片方は黒い格好をしている。
それぞれの目の前にマイクがあり、それぞれが言葉を発している。
発する言葉は、交わらない。
交わるかのように見えて、また乱れあう。
彼の声は、がらんとした部屋中に響き渡る。こだまするように。
この人物は両方とも作者の分身であり、自身の「白い」部分と「黒い」部分なのだという。
わたしは今、この人の最小限にデフォルメされた、頭の中の景色の一部になっている。
時に白い方は沈黙し、黒い方が活発に声を発し続ける。
逆もある。
なんだか、すごくよくわかるな・・・
と思ってしまったのでした。
自分の中で、矛盾する複数の声のせめぎ合いに悩むこと、思い出しませんか。
自分の中の「当たり前」をぶち壊され、新しいものが出てくる瞬間の快感。
蝉の羽化のように。
これに勝る悦びはなかなかない。
全体を見終わって、そう思いました。
いつだって、問題は視点なのだ。
どこから物事を見ることができるか、ということなのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/presents.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)
こんばんは
作品をじっくりと楽しまれたようですね...
相変わらずあれこれ観てまわっているのですが、時々、ルーティーン
に陥っている気がすることもあります。単に表面的なところしかみてな
いような...
mi さんの自分に引きつけるように書かれた感想が新鮮に思えたので、
コメントを残させてもらいますね。
ではでは。
lysanderさんとは、視点がずいぶん違いますよね。興味深く読ませて頂きました!!
私は、自分にひきつけた見方ばかりしてしまいます。。
入り込むのが楽しいみたいで☆
最近は、ほとんど展覧会を観ていなかったので、見慣れた方からすると、「慣れてないなあ」っていうひよっこさだと思いますが(^▽^;)、こんな色とりどりの作品群に触れられたのが再デビューで、ほんとに良かったです。
わたしも、時間内に見切れなかったので、最後は駆け足でしたが・・・(・・;)
言葉の数々...ほぅっと溜息が出ます。
私は感じた事を上手く消化、吸収出来ずに居るので
在る物を そこに在るだけではない、角度・視点から
捉えて、感じる事をもっと楽しんで見たい。
そこでようやく自分だけのコレクションに
なるのでしょうね。
amataさまの視点に、ほんとに勇気を頂くことたくさんです!
消化、吸収。
それは、いつのまにか、呼吸するみたいにすんなりその人になじんでいるのでは・・・
amataさまの甘やかでいて強く深い言葉に、そう感じています。
ようするに、“ヌケ作男”というべきでしょう。(笑
このまま帰るのもなんなので上野の国立博物館へいってきました。
とくに江戸絵画に興味がある男でもなく、何がよいのかさえわからない。
ただ、作品の前に立ったときに何を感じるかということだけを楽しんできました。
何かを感じられる作品が、すなわち“名作”なのでしょうね。w
まさか、目の前まで行って、そんな目に!?
竜さま、ごめんねーーーー!!!
ちゃんと、
「もう終わりましたが・・・」
って書けばよかった~~
(ねえ、でも、ほんとに??)