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スピリチュアル~☆~確実の幸せに成る為の学び~☆釈迦との会話・・瞑想

2012-06-01 16:22:06 | 確実に幸せに成る為の学び舎

スピリチュアル・確実に幸せに成る為の学び★~釈迦より教えられた事・・・                                                                                                                             

◎ 釈迦からの教えは、苦しい・・辛い・・暗い・・苦悩そのものだ・・・

■ 瞑想の勧め・・・第5回目授業・・

 そこで聞いてみた。「イエス・キリストは愛(善)を説くが、どうして、あなたはこうまでも、悪しき事ばかりを説くのですか・・?。お陰で、私は暗く成るは苦しむは・・苦悩の日々に明け暮れています・・。少しは、幸せに成る方法でも教えてくれれば良いのに・・・。私は、救われたいのに・・もう、ず~とず~と苦しみ続け暗く成るばかりです。」

聊か・・・いや、プッツンした!・・と言った方が言い・・腹を立て聞いてみた。

すると器の底に泥(悪しきもの)が溜まったままで、いくら清い水(愛・善)を注ぎ入れても、水は濁るばかりで有る、泥(悪しきもの)を取り除いてこそ、清き水を入れる意味が有る。」と説れた。

この意味を解説すると、器は己の心魂全体を意味し、泥とは悪しき心魂の部分を意味し、清き水は、愛・善の教えを意味する。

静かに底に溜まった泥が清き水を注ぐ事で、舞い上がり水を濁らせる・・。それは、普段は気にする事が無い己の悪しき部分は、静かに心魂の底に沈んでいるが、愛・善の教えを注ぎこむ事で、心魂の悪しき部分が、かきまわされる・・。心の乱れ苦悩を表し、やがて時が経てば、泥(悪しきもの)は再び沈む・・。この繰り返しでは、意味が無く、泥(悪しきもの)を取り除いてこそ、清き水(愛・善の教え)を注ぐ意味が有る・・事を説いています。

分り易い例として「美味しいご馳走も、悲しい・苦し時には、美味しく頂け無いだろう・・。」とも言われた。苦悩を消し去ってこそ、ご馳走は美味しく頂ける・・・と言ったことだろう。

釈迦とイエスキリストの教えの違い

イエスキリストは、愛や善の教えに重きを置き、釈迦は、悪しきものを消滅する教えに重きを置いた・・・。人の心魂に存在する善と悪に対し、イエスキリストは善に向き合い、釈迦は悪に向き合った・・と言えるのだろう。

だから、釈迦の教えは、心魂の悪しき部分に迫るものだから、辛い・・苦しい・・暗い・・・苦悩する。

釈迦は、続いて「悪しき部分を取り除く(消滅する)事は、苦悩に尽きる。しかし、悪しきものを消滅すれば、残るものは、愛・善のみである・・。人は元々、愛そのもので有る・・。その為には、瞑想が必要で有る。」と、説かれた。

瞑想・・・それは、何も考えず、ぼ~とする事では無い・・。無(空・自由)そこに至る為の行為・思考・学び・苦悩が必要で有る。

瞑想・・・煩悩・雑念・欲・・人の悪しき心魂の部分を抹消する事を意味する。それらを捨てる・・・消滅する事で、不安・苦を無くし、心の安心・・・安らぎを得る。強いては、生きる意味も強さも導き出される。何も考えずぼ~とするので有れば、眠った方が体が休まるだけ、まだましだろう。

瞑想・・・先ずは、己と向き合う事から始る・・。己と向き合うは、苦を伴う事でも有る。

今般、情報社会の時代で、テレビをはじめ、あらゆる情報が入って来る。娯楽も多々有る。忙しい時代でも有る・・。心がしんどい時は、娯楽を楽しみ、情報を社会と共有し安心を得ようとする・・。不安や苦・ストレスから一時的には逃れられる・・が、また、繰り返し続く・・。忙しくしていれば、繰り返しも気がまぎれ有りかと思う。気が付けば・・・自分を失っている・・。

己と向き合う・・・本当は、一番大切な時間です。ここから、始めなければ真の安らぎも真の幸せも得られない。

次回は、煩悩・雑念・欲・・・悪しきものについてお話します。

つづく・・・ 

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