掛川六万石の城下町
掛川城は戦国時代後期、駿河の今川氏が遠州進出の拠点として築かせたのが始まりで、今川義元亡き後、今川氏真が駿河を武田信玄に追われた後、西から攻め入った徳川家康に挟まれる形で立て籠もり、半年の籠城の後、助命を引き換えに明け渡しました。
今川〜徳川〜武田と支配者が次々変わり、徳川家康の五カ国支配で落ち着きますが、豊臣秀吉の天下統一により直臣の山内一豊が入城し、城下町の礎を築きました。
関ヶ原の戦いになる流れの中、評定の場で徳川家康に掛川城を託す表明をした山内一豊の覚悟から東海道の諸将も家康に同意し、東軍結束のきっかけを掴みました。
関ヶ原の戦勝後。徳川家康は山内一豊の表明こそ戦功第一として土佐一国、20万石もの加増で報いました。
掛川城下の将門橋
十九首塚
平将門の乱として伝わる
天慶の乱(〜てんぎょうのらん)
所領争いを発端とした天慶の乱は、やがて新皇を称して関東で乱を起こした将門でしたが、戦闘中の流れ矢により戦死、将門と主従の十九人の首は京へ送られる途中、勅使により この地で首実検され、打ち捨てよとの命にも首を持参した藤原秀郷、平貞盛らは曲がりなりにも将門公は由緒ある桓武帝に連なる名門の出として懇ろに埋葬しました。
以来、この地は十九首町として城下町と共に発展します。
戦国時代後期、今川氏の支配下にあった井伊谷郷の領主〜井伊直親が無謀の疑いをかけられ、弁明に赴く道中、この地で襲撃され、無念の死を遂げました。
遺された遺児こそ、後の徳川四天王の井伊直政です。