見出し画像

日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 5 ‐ 2 静岡県 浜松市 2




天竜翁〜金原明善 生家
静岡県浜松市東区安間町金原明善記念館

 

今年のお盆休み…、多くの人がそうだったかも知れませんが、ぼくのお盆休みは台風に右往左往させられた休みでした。

特に帰省の復路で予定していた東北地方の史跡探索の多くをキャンセルしなければ なりませんでした。


昔も現代も、人は自然災害には弱いです。



静岡県(厳密には駿河国と遠江国)には、生まれは共に江戸時代後期。 


育った環境は全く違うものの、時代が明治の幕開けを迎えると、利を求めることは二の次で、公共のために生涯を費やした二人の偉人がおりました。


1人は世に知られた東海一の大親分と恐れられた侠客〜清水の次郎長こと、山本長五郎。

次郎長は、多くの子分を持ち、賭博、喧嘩に明け暮れ、ある意味やさぐれた人生を送っていましたが、戊辰戦争の戦火が住まいの清水の町に飛び火した際、惨殺された幕府海軍兵の遺体が川に打ち捨てられながらも、清水の住民らは政府軍を恐れて誰も回収しない中、次郎長は子分と共に回収して埋葬した義侠心に、静岡県権大参事(現在の県副知事にあたる職)にあった旧幕臣の山岡鉄舟が感激し、交流が始まりました。

その鉄舟も、江戸無血開城を巡り、西郷隆盛と会談した勝海舟の会談の露払いを単身で乗り込み、西郷にして、〜山岡は名前も金も名誉も要らない、困った男だ、そんな男でなければ、天下の大功は任せられない〜と言わしめ、三顧の礼をもって明治天皇の侍従に要請した傑物でした。

重職にありながら鉄舟の私心の無い人柄に感化された次郎長は、それまでの生き方を180度変え、公共のために働く事業家として生まれ変わりました。


そして もう一人、


金原明善 胸像

〜天竜の川狂い〜金原明善(きんぱら めいぜん)


これは、暴れ川と怖れられる天竜川の治水工事の必要性をしつこく訴えにやって来る金原明善に、明治政府の役人がつけた仇名でした。


金原明善は、1832年天保3年に遠江国安間村(現在の静岡県浜松市東区安間町)で、造り酒屋や大土地でもある名主、七代目久右衛門の長男として生まれました。

明善は幼名〜弥一郎と呼ばれ、比較的裕福な家に生まれたことから、何不自由なく暮らしてましたが、14歳のときに大病を患い、入れ替わる様に快復間もなく母を亡くし、なお、安間村は洪水被害に見舞われたことから大きな衝撃を受けます。


明治維新は、それまでの武家が政権を担うという封権制度の社会システムが天皇親政の中央集権体制へと、一変した政変となりました。


ただ、明治元年、日本という国が大きく変わろうとする時であっても、災害は時を選びません。


この年、暴れ川と呼ばれる天竜川が堤防を決壊させ、浜松市街地に大きな被害をもたらしました。


明善は、新しい時代の到来だというのなら、お上に意見を述べることも可能ではないか、と考え、上洛して発足間もない明治新政府民政局へ出向いて天竜川治水策をまとめ上げた建白書を提出しました。


新政府といっても、この時は戊辰戦争の最中だったこともあり、一平民が建白書を提出したところで、まともに取り合ってもらえず、
〜天竜の川狂い〜と揶揄される始末でした。


安間村に戻った明善は近隣の住民らと復旧工事を進め、秋には堤防の修復を終えました。


同じ頃、明治天皇の全国巡幸が話し合われ、東海道をはじめとした街道筋の整備の必要性が問われ、安間村も東海道に隣接した村であることから、浜松藩にも整備の通達が来たものの、安間村の天竜川周辺は明善が献身的に復旧工事を進めたことが認められ、天竜川御普請専務の肩書を得られ、多くの事業を立案しました。



〜天竜の川狂い〜
明善は役人達からそう揶揄されながらも私財を投じてまで永年、天竜川の治水に尽力する噂は、明治政府高官らの知る所となり、1874年〜明治10年12月、明善は内務卿〜大久保利通との会談となりました。


この年の暮れは西南戦争終結間もない時期で、政府も莫大な戦費を費やした後であったものの、内務卿〜大久保利通は会談で明善の誠実な人柄を見抜き、補助金を出すことを快諾しました。


翌年には、明治天皇の東海地方の巡幸が始まります。


そして明治天皇が浜松を巡幸され、明善の起こした治河協力社を訪れるということが決まります。明善は社内に玉座を拵え、明治天皇は明善夫妻に賜謁しました。


その後、明善は川の治水から治山へと目を向け、荒廃した山林の復活、植林に力を入れます。

御料林の貸与を受けて約290万本の植林、さらに民有林を買い上げての植林は390万本を超え、これらの林は金原林と呼ばれました。


また、植林と木々の成長は長い年月を必要とするため、金原治山治水財団を設立し、成長した金原林は全て寄附しました。









現在、日中は交通量の多い中野町六所神社北側の天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の石柱が建っています。


1879年、明治11年11月1日、明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明善が天竜川堤防修築のため設立した「治河協力社」の建物内で御休憩されました。


その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬(ちりめん)を下賜されました。
 


天竜翁〜金原明善の主な軌跡

天竜川の治水事業
治山植林事業
植林、間伐に関わる製材、運輸会社の設立
北海道開拓
現在の更生保護の原点ともいえる
出獄人保護事業など。




ランキング参加しています。応援お願い致します!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「歴史めぐり 街物語」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事