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日本歴史紀行

北海道偉人史 6 大友亀太郎


大友亀太郎 像
北海道札幌市東区北13条東16丁目


現在、人口190万人が暮らす北の都 札幌市。
日本の首都、東京都以北〜東日本最大の都市となっています。

その札幌も、人が入植して生活できるまで数々の苦難がありました。


ペリー来航以来の幕末直前の1855年、安政2年、北方の守りの必要性を迫られた幕府は、箱館奉行に守りと共に人々が住める地の選定を命じます。

箱館奉行は小樽の東、石狩に広がる平野周辺に入植、開墾出来ないものか思案を重ね、これまで数々の疲弊していた農村を蘇らせた実績を持つ元農民で小田原藩士から幕府直臣の身上となっていた二宮尊徳(二宮金次郎)に白羽の矢を立て、懇願するも当時、尊徳は病床の身にあり、とても役割りを果たすに及びませんでした。(その後間もなく尊徳は病没)

奉行は尊徳の優れた門人だった新妻助惣が奉行付の役となり、まずは開港された箱館に派遣されることとなります。

この新妻に同行する形で尊徳の門弟だった大友亀太郎も箱館に赴任します。

大友亀太郎は尊徳と同じ小田原の生まれで、農政にまつわる開墾、土木、用水に至るまで学び尊徳に師事していました。

箱館に近い木古内の幕府開墾場で8年をかけて最初に入植者を招いての開墾を成功させると大友亀太郎は幕府、蝦夷地開墾掛なる役職で石狩場所の開墾を命じられ、現在の札幌の地へと赴きます。

時代は1866年、慶応2年。上方では尊皇攘夷を掲げた外様諸藩の志士達が暗殺、謀略の限りを尽くし、幕府による治安維持が絶えず後手に回り、将軍 徳川家茂は第二次長州征討の敗報の末に病没、さらに攘夷に伴う内乱状態に悩まされ続けた孝明天皇が崩御し、いよいよ倒幕の動きが起こり出した世でした。

そんな風雲急を告げる世情とは別に、亀太郎は役目に邁進します。

札幌の原野に着くや否や、開墾に必要な測量から道路整備に橋の架橋を先導し、何より開墾に大切な用水路の開削を始めて慶応2年の秋には完成させます。


完成後に大友堀と呼ばれる用水路は札幌市街の中心部を流れる創成川となり、一時は運河の役割りをも果たした後は、石狩川水系一級河川となり、市民憩いの清流として現在も親しまれています。

江戸幕末期から明治初期に開拓に必要不可欠な水の確保を成し、大友堀周辺から人家と田畑が形成されて行き、大友亀太郎の役宅地辺りは札幌村と命名され、継続的な発展の礎を築いた大友亀太郎は紛れもなく札幌開祖の一人といえるでしょう。







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