本能寺跡
京都市中京区元本能寺南町
本能寺の変
王政復古
226事件
この3つは
ぼくが思う日本史上、もっともインパクトの大きなクーデターです。
本能寺の変
誰もが知る日本史上最大の衝撃的なクーデターといえるでしょう。
天正10年3月に、長年の懸念だった甲斐 武田氏を滅ぼした織田信長。
5月になり、信長は絢爛豪華な安土城に徳川家康と主だった家臣を招いて饗応の席を設けました。
接待役には明智光秀が命じられました。
しかし、
中国 毛利攻めを受け持つ羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、畿内に残った唯一の重臣 明智光秀に家康への接待役を解き、秀吉への援軍に赴くように指示します。
森蘭丸ら一部の供廻りを引き連れて京、本能寺へ入った信長は、招待した公卿らに収蔵していた自慢の茶器を披露、囲碁の対局を夜中まで観戦して床に入りました。
6月1日 夜になり、丹波亀山城を出陣した明智光秀は、一万三千の軍勢で中国ではなく京を目指します。
6月2日 早朝、喧騒で目を覚ました信長は、本能寺を取り囲んだのが明智勢と判明すると、【~是非に及ばず~】と呟き、突入する明智勢に弓矢と槍で供廻り達と応戦するも、右肘を負傷したところで御殿奥に入り、自害しました。
御殿には火がかけられ炎上し、午前8時頃には光秀の主君討ち果たしは終了しました。
主君を討ち、大義を成したかに思われた明智光秀。
彼の最大の誤算は、信長本人の首級を揚げられなかったことでした。
この後、光秀は中国より引き返してきた秀吉の大軍勢と山崎で戦うも敗れ、三日天下となりました。