(皇極天皇2年6月12日)(645年7月10日) -
蘇我入鹿が暗殺され、大化の改新が始まる
蘇我入鹿 首塚
奈良県高市郡明日香村飛鳥
皇極2年 蘇我入鹿は、自らの権力をさらに大きくすべく、聖徳太子の皇子で、有力な皇位継承資格者であった山背大兄王を斑鳩宮で襲撃します。
父、聖徳太子から、【諸の悪を作(な)すこと莫(なか)れ。諸の善を行え。】と遺言を遺された山背大兄王は戦うことを否定し、一族共々自害して果て、まるで殉教のような最期を遂げました。
山背大兄王とその一族の滅亡は、これにより聖徳太子から続く上宮王家が途絶えました。
上宮王家を滅ぼした蘇我入鹿は父、蝦夷と共に朝廷において絶大な権力を独占し、その権勢は天皇家をも凌ぎ、蝦夷は入鹿を王子と呼ぶ有り様でした。
留学生や僧が帰国し、海外の情勢が緊迫しているという中、蘇我一族は己れの権勢を私物化している始末で、やがて、蘇我氏を排除して新しい律令国家を作ろうという者が現れました。
中臣鎌足です。
鎌足は、先代 舒明天皇の皇太子 中大兄皇子に近づいて蘇我入鹿を排除する計画を打ち明けます。
645年皇極2年 6月12日、
飛鳥板蓋宮 大極殿において、中大兄皇子と鎌足の手により蘇我入鹿は討ちとられ、入鹿の死を知った父、蝦夷は自邸に火を放って自殺し、権勢を謳歌した蘇我宗家はあっけなく滅亡しました。
蘇我氏を政権から追放した中大兄皇子と中臣鎌足の起こした政変は【乙巳の変~いっしのへん】と呼ばれ、数日の後より始まる新政権による国政が大化の改新へと繋がります。