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日本歴史紀行

歴史紀行 82 土佐坊昌俊 邸宅跡


土佐坊昌俊 邸宅跡
神奈川県鎌倉市雪ノ下



頼朝の疑念

平家を滅亡させ、源氏復権への大きな功名を果たした源義経でしたが、頼朝に無断での後白河法皇からの検非違使の職の拝命。それに平家追討戦に伴う数々の独断専行による作戦遂行は、頼朝が派遣した御家人衆の反目を招きました。


伊豆の地に流刑となり、20年もの間、異国同然の地で雌伏の時を過ごしてきた頼朝は、猜疑心の強い一面を秘めた武人として育ちました。


一方の義経は、平清盛すら動向に気を配っていた奥州の王、藤原秀衡に庇護されて自由闊達に育てられ、天才戦略家としての基礎を築きました。

頼朝と義経、同じ源氏の血を引く身にありながら、この兄弟には平家を滅ぼすという共通の目的があったものの、その平家が滅んだ後は、頼朝にとって義経の存在は、一歩間違えると自らの覇業に重大な障害を及ぼす危険がありました。


義経は捕らえた平家の総大将、平宗盛を伴い鎌倉へ凱旋しようとするも、鎌倉の西の腰越で留め置かれ、鎌倉入りは拒否され、頼朝の疑念を晴らすべく渾身の思いを文に認(したた)め、頼朝側近の文官、大江広元に託すも腰越状は広元によって握りつぶされて頼朝へは渡らず、結局、頼朝の義経への疑念は消えず、義経は鎌倉入りと頼朝との対面を諦め、京へ引き返しました。


義経、頼朝と破局

1185年、文治元年6月
頼朝は引き返した義経に早馬を出して平宗盛 父子の処刑を命じて実行させ、平家嫡流の血筋を絶たせました。


さらに南都焼き討ちに関与した平重衡の身柄を大和、興福寺の衆徒に引き渡させて重衡を処刑させると頼朝の非情さを身に滲みた義経は、頼朝への思慕の情を完全に断ち、8月に京の治安を守る検非違使の職を朝廷から再任されます。


頼朝は帰洛した義経に伊予守を叙任し、一度は関係修復の機会を模索するも、義経の検非違使再任の知らせをもって修復を諦めます。

頼朝は後白河院に近く、河内地方を不法支配している叔父の行家の討伐を計画し、行家討伐を命じるも、義経は病と称して応じることはなく、頼朝は義経に叛意ありとして暗殺を計画します。



2に続きます。















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