壇ノ浦の戦い〜壇ノ浦古戦場
山口県下関市みもすそ川町
壇ノ浦の戦い への主な流れ…
1180年、治承4年5月26日に平家追討を呼びかける以仁王の令旨が全国の源氏に向けて発せられ、以仁王は平家の圧倒的な兵力の前に敗れたものの、平家への恐怖心は全国の源氏に加え、平家の圧政に義憤を抱いていた地侍達を立ち上がらせることとなり、一時は静観していた源頼朝も北条氏ら、伊豆の地侍達と共に打倒平家を胸に立ち上がりました。
旗揚げ緒戦の伊豆目代〜山木兼隆を討つことに成功した頼朝でしたが、次戦の石橋山の戦いでは大敗を喫して命からがら箱根山中を縫う様に敗走して真鶴半島から海路、安房国(現在の千葉県南部)へ逃れました。
ここから天運が頼朝に味方した様に安西景益、千葉常胤、上総広常といった安房、上総、下総の有力な地侍達を味方に付け、さらに武蔵、相模でも味方となる地侍達が相次ぎ、頼朝の麾下となる総兵力は三万にも及ぶものでした。
意気揚々と父祖伝来の地、鎌倉に入った頼朝。
間もなく平家が東国鎮定の軍勢を派遣すると大軍を率いて迎え撃ちます。
富士川の戦い
富士川で対峙した平家軍と源氏軍。
京を発つのも吉兆を占ってから出陣した平家の軍勢は道中で兵をかき集める策をとり、兵糧も足りず、士気は上がらず寄せ集めの烏合の衆と化した平家軍は滞陣中に遊女を呼び寄せる有様でした。
両軍が対峙する中、夜半になり、物音に届いた水鳥が一斉に翔び立つ騒ぎが起きると、大軍の襲来と勘違いした平家の軍勢は慌てて逃げ出し、源氏の軍勢は一戦も交えず勝利しました。
追撃を考えた頼朝でしたが、先ずは様子見の地侍も居ることから関東の地固めが先決として、積極的に西上することはせず、鎌倉へ凱旋しました。
頼朝、義経 対面石
静岡県駿東郡清水町
頼朝はこの陣中で奥州平泉から馳せ参じた末弟の九郎義経と対面を果たしました。
朝日将軍 木曽義仲
頼朝が鎌倉にて勢力を蓄える中、信濃 木曽に雌伏していた もう一人の源氏、木曽義仲が挙兵しました。
討伐に押し寄せた平家軍を北陸道、俱利伽羅峠の戦いで打ち破った義仲はその勢いを駆って京に入ります。
木曽義仲が京へ入った1183年、寿永2年の夏、この年は全国で大飢饉に見舞われ、義仲が平家を追うために徴発した大軍勢は数で平家を圧倒して都落ちさせたものの、その次は惨憺たる有様を招きます。
勝ちに乗じた義仲の兵は飢饉に苦しむ京の民から食料を簒奪し、また乱暴狼藉で苦しめ、人心は急速に離れ、それに加えて義仲は以仁王の遺児、北陸宮を次の帝へと分不相応の要求を後白河法皇にして大不興を買いました。
後白河法皇は密かに鎌倉の頼朝に義仲の討伐の宣旨を発したことを義仲が知り大激怒、義仲は軍勢を率いて後白河法皇の法住寺殿を襲撃し、
護衛の近臣を討ち取り法皇を捕らえ幽閉しました。
後白河法皇はこの顛末を密使に託して頼朝に上洛を望みました。
頼朝はここで九郎義経と蒲冠者、範頼に大軍を付けて京へ派遣します。
頼朝動く…の報を知った義仲は強奪するように征夷大将軍の宣旨を後白河法皇から獲て迎撃するも、範頼が近江 瀬田、義経が宇治から進軍して義仲軍を敗ると勝負はありました。
義仲は僅かな手勢で京から落ち延びる中、近江粟津で討たれました。
一ノ谷の戦い
義仲により都落ちを喫した平家は西国に逃れ、義仲が法皇や朝廷との権謀術数にはまっている隙にかつて清盛が築いて遷都まで行った福原(現在の神戸市)に戻って勢力回復を計っていました。
義経、範頼は義仲追討の勢いをもって福原の要害、一ノ谷に籠もる平家軍へ襲いかかります。
平家が滞陣した一ノ谷は前面が瀬戸内海、東は生田川、西は一ノ谷に堀と柵を巡らし、防御は完璧と思われました。
さらに
1184年、寿永3年2月6日、平清盛の法要を営む平家の陣中に後白河法皇の使者が現れ、和平を勧告したと伝わります。
大軍を率いた範頼の軍勢は山陽道を西へ、義経は丹波街道を通り福原を迂回する策です。
範頼軍は平家軍の守る一ノ谷の東、生田口を目指します。
義経は丹波、三草山から軍勢を二手に分け、土肥実平の軍勢を三草口から南下させて明石、塩屋方面へと迂回させて平家軍から見て西を進ませ、義経自身の少数の軍勢は鵯越道を進み、急峻な断崖絶壁に臆する者が続出するため、道中で道案内をさせるべく徴発した猟師に聞くと、鹿は崖を降りるということから、崖を降りる策を用いることとします。世にいう鵯越の逆落としです。
7日早暁、東の範頼軍が生田口で平家軍と交戦開始。
次いで西の明石、塩屋口でも戦端が開かれ、平清盛の弟、平忠度(ただのり)の軍勢が迎え撃ちます。
平家の一ノ谷本陣が手薄になった頃合いを好機と見た義経は一ノ谷本陣を雪崩れ込む様に急襲、本陣の守備隊を蹴散らして炎上させると平家軍は東西で大混乱となり大勢が決し、一門の将兵らが次々と討たれる中、平家は海路に逃れました。
2に続きます。