伽羅御所跡
岩手県西磐井郡平泉町字平泉伽羅楽
文治元年11月から始まった義経の逃避行
1年余りの逃避行の末に義経主従が平泉に辿り着いたのは、文治3年(1187年)2月のことでした。
義経が留守にした7年の間に、朝廷には莫大な黄金で手懐け、清盛には潤沢な黄金と広大な穀倉地帯での実りを背景に北の王国に君臨した主、かつての平清盛や源頼朝が畏怖した藤原秀衡の姿は影を潜め、老いと脳卒中による半身不自由により、私邸である伽羅御所の寝所にて寝たきりの身に成り変わっていました、
既に自らの死期を予感したのか、秀衡は枕頭で様々な対策を施します。
秀衡には6人の男児に恵まれましたが、母の身分の格差から身分の高い母を持つ次男の泰衡が次期当主と定められました。
長男の国衡に次男、泰衡の生母を再嫁させて父子の絆を紡ぎさせ、奥州に万一の際は義経を主君、大将軍として泰衡、国衡が協力して補佐して難局を切り抜けよというもので、秀衡は3人に誓紙血判まで書かせました。
兄弟同士の相克、同士討ちの芽を摘むことに腐心した末に奥州に君臨した英傑、藤原秀衡は文治3年(1187年)10月29日、66歳で亡くなりました。