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日本歴史紀行

歴史紀行 9 四天王寺


四天王寺 (五重塔、金堂)
大阪市天王寺区四天王寺


推古天皇元年(593年)四天王寺は、今から1400年以上昔に創建した日本初の官寺となります。


遡ること欽明天皇13年(552年)、日本に初めて仏教が伝来すると、その教えに感化された者と否定する者とで別れ始めます。

日本書紀によると、
欽明天皇が臣下にもたらされた仏教の是非を問い、蘇我稲目(蘇我馬子の父)は帰依すべきと主張し、物部尾興は強く反対します。

欽明天皇は蘇我稲目に仏像を授け、稲目は邸宅に仏像を祭る日々を送ります。

やがて国中に疫病が流行ると、物部尾興は神々の怒りに触れたためだとして邸宅を焼き払い仏像を川に投げ捨てました。

この対立はやがて両者の子の世代にまで続くことになります。

蘇我稲目の子、蘇我馬子は父、稲目と同じく仏教に帰依、崇仏派として。物部尾興の子、守屋は廃仏派として。

二者の対立は仏教の是非を問う宗教対立にとどまらず、朝廷内の政治上の争いも加わって より激化して 用明天皇2年(587年)ついに武力衝突となります。

戦いは物部守屋の優勢で進む中、崇仏派に組みした聖徳太子(厩戸皇子)は、打開するため、四天王像を自ら彫り、もし戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、苦しむ人々の救済を誓うと誓願します。

戦いは蘇我馬子、聖徳太子ら崇仏派の勝利し、聖徳太子は誓い通り寺院を建立します。

593年(推古天皇元年)、日本最初の官寺として四天王寺が創建となりました。




五重塔
聖徳太子は創建時、六道救済の悲願を込めて、礎石の心柱の中に仏舎利と自らの毛髪を納めました。
災害、戦災に度々焼失、倒壊し、現在の塔は8代目となります。

金堂
聖徳太子の本仏である救世観音を祭り、四方を四天王か守ります。




六時礼賛堂
昼夜6回、礼賛することからこの名前がつきました。薬師如来、四天王をお祭りします。


太子殿
聖徳太子をお祭りする正式にほ聖霊院と呼びます。




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