

久能山 石垣いちご発祥の地碑
静岡市駿河区根古屋 久能山東照宮
久能 石垣いちご の誕生には、幕末の会津藩主を務めた松平容保に連なる子孫が橋渡しをしました。
旧会津藩主 松平容保の次男、松平健雄が久能山東照宮に奉仕していた川島常吉に苺の苗を託したのが始まりとされています。
松平健雄
松平容保の次男として生まれ、会津 伊佐須美神社の5代目宮司を務め、1896年 明治29年に久能山東照宮の宮司となりました。
健雄は、米国領事館の友人から譲り受けた苺の苗(エキセルシャ種)を手に入れ、宮司の車夫【人力車の漕ぎ手】をしていた川島常吉に託します。
これがのちの石垣いちごとなるのです。

川島常吉
川島常吉は、久能山東照宮の門前町で参詣客を迎える宿屋 「福島宿」を営んでいましたが、明治維新で廃業し、その後は、東照宮に奉仕する決意を固め、車夫となりました。
明治29年、久能山東照宮の宮司となった松平健雄より託された苺苗を玉石の間に植え、厳冬期には石の輻射熱で苺を栽培するという。
これが「石垣いちご」の始まりです。
「石垣いちご」は静岡市だけの栽培方法で、冬でも温暖なこの地域は陽当たりがあると、冬とは思えない陽気に恵まれることから、山の斜面を利用して栽培するためすべてのいちごに陽が当たりやすく、石垣の間に苗を植えることで温かく冷めにくい状態で育てるのに適していました。
玉石を使用した石垣いちごの栽培ですか、次第に栽培に適した石の不足が目立ち始め、大正時代になると、コンクリート板による栽培法が確立します。
昭和時代に入ると、ビニールハウスによる栽培も取り入れられ、収穫期には、イチゴ狩りも行われる様になり、多くの観光客で賑わいます。
平成に入ると現在の代表品種である【章姫~あきひめ】や【紅ほっぺ】などが栽培される様になりました。
川島常吉によって考案された栽培法は、現在も玉石垣が保存されいちご栽培が行なわれています。
