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日本歴史紀行

歴史紀行 79 ‐ 11 安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵) 11







安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮


1183年 寿永2年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を壊滅させた木曽義仲。

破竹の勢いで連戦連勝を重ねて軍勢を京へ向けます。もはや、打つ手を無くした平家は京を脱出、西へと逃れます。



朝日将軍 木曽義仲



討伐に押し寄せた平家軍を北陸道、俱利伽羅峠の戦いで打ち破った義仲はその勢いを駆って京に入ります。


木曽義仲が京へ入った1183年、寿永2年の夏、この年は全国で大飢饉に見舞われ、義仲が平家を追うために徴発した大軍勢は数で平家を圧倒して都落ちさせたものの、その次は惨憺たる有様を招きます。


勝ちに乗じた義仲の兵は飢饉に苦しむ京の民から食料を簒奪し、また乱暴狼藉で苦しめ、人心は急速に離れ、それに加えて義仲は以仁王の遺児、北陸宮を次の帝へと分不相応の要求をして後白河法皇にして大不興を買いました。


後白河法皇は義仲に対し、西へ逃れた平家を討てと命じ、義仲は備中、水島で平家に敗れ舞い戻ります。京では民心が離れ、西に平家。東には鎌倉の頼朝が構えています。
 

後白河法皇は八方塞がりの義仲にもう利用価値が無いと見ると、密かに鎌倉の頼朝に義仲の討伐の宣旨を発したことを義仲が知り大激怒、義仲は軍勢を率いて後白河法皇の法住寺殿を襲撃し、護衛の近臣を討ち取り法皇を捕らえ幽閉しました。


後白河法皇はこの顛末を密使に託して頼朝に上洛を望みました。


頼朝はここで九郎義経と蒲冠者、範頼に大軍を付けて京へ派遣します。






頼朝動く…の報を知った義仲は強奪するように征夷大将軍の宣旨を後白河法皇から獲て迎撃するも、範頼が近江 瀬田、義経が宇治から進軍して義仲軍を敗ると勝負はありました。


義仲は僅かな手勢で京から落ち延びる中、近江粟津で討たれました。


一ノ谷の戦い

義仲により都落ちを喫した平家は西国に逃れ、義仲が法皇や朝廷との権謀術数にはまっている隙にかつて清盛が築いて遷都まで行った福原(現在の神戸市)に戻って勢力回復を計っていました。



義経、範頼は義仲追討の勢いをもって福原の要害、一ノ谷に籠もる平家軍へ襲いかかります。

平家が滞陣した一ノ谷は前面が瀬戸内海、東は生田川、西は一ノ谷に堀と柵を巡らし、防御は完璧と思われました。

さらに
1184年、寿永3年2月6日、平清盛の法要を営む平家の陣中に後白河法皇の使者が現れ、和平を勧告したと伝わります。 


大軍を率いた範頼の軍勢は山陽道を西へ、義経は丹波街道を通り福原を迂回する策です。

範頼軍は平家軍の守る一ノ谷の東、生田口を目指します。


義経は丹波、三草山から軍勢を二手に分け、土肥実平の軍勢を三草口から南下させて明石、塩屋方面へと迂回させて平家軍から見て西を進ませ、義経自身の少数の軍勢は鵯越道を進み、急峻な断崖絶壁に臆する者が続出するため、道中で道案内をさせるべく徴発した猟師に聞くと、鹿は崖を降りるということから、崖を降りる策を用いることとします。世にいう鵯越の逆落としです。

7日早暁、東の範頼軍が生田口で平家軍と交戦開始。

次いで西の明石、塩屋口でも戦端が開かれ、平清盛の弟、平忠度(ただのり)の軍勢が迎え撃ちます。


平家の一ノ谷本陣が手薄になった頃合いを好機と見た義経は一ノ谷本陣を雪崩れ込む様に急襲、本陣の守備隊を蹴散らして炎上させると平家軍は東西で大混乱となり大勢が決し、一門の将兵らが次々と討たれる中、平家は海路に逃れました。



12に続きます。

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