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日本歴史紀行

歴史紀行 8 ‐ 6 平家終焉の地 平宗盛公胴塚 6



平宗盛公胴塚 
滋賀県野洲市大篠原



朝日将軍、木曽義仲の入京


寿永二年(1183年)5月
伽羅倶梨峠、篠原、北陸で二度の戦いで大敗した平家の棟梁 平宗盛は、都の北東である山科口の防衛を宗盛に懇願され平頼綱は、やむなく山科に出陣するも、その後、無断で宗盛が一門を率いて都落ちしたことに愕然とします。


そして危機を察知し、いち早く比叡山に逃れて都落ちには加わらなかった後白河法皇に拝謁します。


法皇は頼盛に縁のある八条院に潜伏して難を避けよと助言し、頼盛は義仲との戦いを避けました。



八条院の主は以仁王の母で暲子内親王(しょうし内親王)でした。

暲子内親王の兄は後白河法皇、父は鳥羽天皇、母はその鳥羽帝から寵愛を一身に受けた美福門院で、頼盛の妻はその内親王の乳母、宰相院の局の娘を妻としていた間柄を示し、存命中の清盛すら迂闊に手を出せない館でした。


後白河法皇は源平どちらの勢力が抗おうが絶対に踏み込めないだろうと頼盛に八条院を勧めたのです。


頼盛が八条院に潜伏している間に義仲の軍勢は平家一門が去った都に新しい主としてなだれ込みました。


後白河法皇は、平家を追い散らして意気揚々と入京したものの、引き連れて来た大量の兵によって瞬く間に都の治安を悪化させ、さらに平清盛すら躊躇してみせた皇位継承に口を挟んだ義仲に激怒します。


後白河法皇にとって、平家を追い払う役を終えた義仲は用済みでした。


平家が四国、屋島を拠点に置き、都へ再度の帰還を目論むと、法皇は義仲に平家追討を命じます。

都の治安を散々脅かし、法皇の信用を無くした義仲にとって、もはや平家を今一度破り、戦果を上げることが求められました。


義仲は樋口兼光に都の守りを命じて西国の平家を討伐すべく発ちました。


7に続きます。











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