安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
治承2年(1178年)11月、平清盛の血縁である言仁(ことひと)親王(後の安徳天皇)の誕生は清盛を狂喜させ、清盛自身は平家の栄華が恒久的に続く錯覚に因われたことでしょう。
しかし、あからさまな平家一門による特権意識と内裏、朝廷すら凌駕する政権運営は一門以外の激しい内なる反発を招くことになります。
やがて平家一門による栄華の終焉を告げる様な不幸が次々と起こります。
言仁親王(後の安徳天皇)誕生の翌年、治承3年に清盛と昵懇(じっこん)の間柄にあった藤原摂関家の藤原基実が急死し、摂関家領を相続した妻で清盛の四女〜盛子も後を追うように没すると、後白河法皇は盛子の相続領を没収します。
法皇のこの行為に激怒した清盛ですが、夏には清盛と後白河法皇の間に立って苦難の立場にあった清盛の嫡男、重盛が亡くなります。
そして法皇は、重盛が国守を務めていた越前国まで没収に出たことで清盛の怒りは頂点に達し、後白河法皇との決別を決意して数千騎もの軍勢を率いて福原(現在の神戸市)から京へ雪崩れ込みました。
清盛は後白河法皇に近い貴族らを解官させ、一門と平家に親しい近臣らに国守に任じます。
日本全土、六十六ヶ国中、平家一門が知行する国は三十二余りで、国内の半数を押さえます。
なおも清盛は禁断の一手を打ちます。
後白河法皇を南部の鳥羽離宮に幽閉します。
僅かばかりの近臣、僧侶、女官ら以外の参内は禁止されました。
臣下による法皇の幽閉という前代未聞の所業に尋常ならざる事態として、平家一門以外の人々は強大な勢力に怯えました。
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