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日本歴史紀行

墓前紀行 4 高野山 薩摩 島津家墓所



薩摩 島津家墓所 高野山 奥の院


和歌山県伊都高野町 高野山


2018年
大河ドラマ【 西郷どん 】が放送されて、維新三傑の西郷隆盛が注目され、去年の大河ドラマ〜青天を衝け〜でも一際存在感がありました。

ぼくの先祖は薩摩藩士の出で、世が未だに武士の世だったならば、島津家は主君だったということになります。(ぼく自身は幕府推しですが…。)



その西郷さん~西郷隆盛の主君、島津家の高野山の墓所について書きました。


江戸時代、薩摩藩 歴代当主が藩主を務めた島津氏は、古くは初代 惟宗(これむね~島津)忠久を産んだのが源氏の棟梁~源 頼朝の妾だった丹後局で、鎌倉幕府を開いた源 頼朝の御家人として南九州の日向、大隅、薩摩の三国の守護職を命じられたことが薩摩における島津氏が興る始まりとなり、島津の名は諸説ありますが、南九州の大半の地域を領有した近衛家の荘園が島津荘ということから、本貫地の島津の名を採り、名乗り始めたと言われてます。

島津氏三代の久経 が元寇以来、南九州土着の御家人として支配しました。

応仁の乱以降、室町幕府の権威と支配力が失墜した後は、当主 義久が九州の覇権を目指して北進しますが、上方では豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたことにより、豊臣政権下の一大名として存続を計りました。

豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで西軍に味方して戦いに備えた島津義弘ですが、戦いは徳川家康率いる東軍が勝利し、敵中に取り残された島津軍は、決死の敵中突破を強行して薩摩に還りつきます。

戦勝の徳川家康は、島津を攻めることはせず、本領安堵として終息させました。

関ヶ原の戦後処理を行った徳川家康は江戸に幕府を開き、武家の頂点として君臨します。

江戸時代になり、幕藩体制が確立すると、島津
家は武勇を誇った義弘から子の家久が初代 薩摩藩主となり、外様大名の雄として薩摩藩を経営します。

高野山に建立された墓所は、その初代藩主の家久、二代藩主の光久、そしてその子・綱久の三方の墓所です。綱久は世嗣として3代藩主になるはずだったのですが、早くに亡くなったため、その長男の綱貴が3代藩主になります。

なお、中央の一番大きい初代藩主家久の五輪塔は奥の院で4番目に大きい4番石と言われているそうです。 



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