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2019年8月の最初の週末は袋井市へ。
源 朝長(源頼朝 次兄)の墓所、積雲院
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頼朝松
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源 朝長 墓所 積雲院
静岡県袋井市友永
1159年 平治元年
平治の乱を起こすも、政治力と軍勢の動員力で平 清盛に敗れた源 義朝は、長男の義平、次男 朝長、三男 頼朝と僅かな郎党と京から落ち延びました。
途中、三男の頼朝は疲労ではぐれ、
近江の東山道に差し掛かったところで長男 義平が再起をはかって北陸へ向かいます。(義平は清盛の首を狙い京へ入るも失敗して斬首)
次男の朝長は、落武者狩りとの戦いで脚に弓矢を受け負傷してしまいます。
美濃国 青墓の宿に来たところで朝長は、足手まといを嫌い、自害したとも、父 義朝に介錯を願ったともいわれます。
その後、青墓の朝長の墓が平家により暴かれ、京で晒し首になっていたものを朝長の家来の大谷忠太(おおやのちゅうた)が首を持ち帰り、故郷であるこの地に埋葬しました。
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左側から源義朝(源頼朝の父)の墓
中央、源義平(源頼朝 長兄)墓
右側、源朝長(源頼朝 次兄)墓
1185年 元暦2年、平家滅亡の後、弟の頼朝が上洛途中に訪れ、菩提寺を建立。名を積雲院としました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/7b/2b8f84def9cd30d7b3379c47405a2f55.jpg?1693001727)
その後、時代の流れの中で荒廃しますが、可睡斎の等膳上人が徳川家康の援助を受けて再興しました。