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弘法大師 空海 像
京都市南区九条町 東寺 境内
806年 大同元年、 空海は九州に上陸して帰国を果たします。
ただ、20年の留学条件を、わずか2年で帰国した空海は問題視され、九州から出ることを禁じられてしまいます。
空海は九州、大宰府に留まる間に自身が学んだ密教の教えや師、恵果から託された法具や膨大な経典を目録に記して書き送ります。
空海の送ってきた目録を見た朝廷は驚きました。
先に帰国した最澄がもたらした教えにも密教が含まれていて、朝廷が注目し始めていたからでした。
最澄は、自らが教えを受けた天台山の密教は、空海が受け継いだものの傍系に過ぎないことを理解し、空海を早く帰京させるべきと朝廷に働きかけます。
809年大同4年、嵯峨天皇が即位すると、空海は入京を許され、およそ5年振りとなる都の土を踏むことが出来ました。
810年 大同5年、嵯峨天皇と先帝の平城上皇との間で一触即発の事態が起こります。
【薬子の変】と呼ばれるこの争いは、先帝の平城上皇が皇太子時代、皇后の母【薬子】と関係を結んだことを激怒した当時の桓武天皇が薬子を宮中から追放したことから始まり、平城天皇が即位するも、体調を崩す日々が続き、嵯峨天皇に譲位して自らは太上天皇となりました。
薬子は、体調の異変は平城の異母弟 伊予親王と母の謀反の企てだと事件を捏造して平城上皇に伝えたため、二人を幽閉すると、二人は無実を訴えて自殺してしまいます。
平城上皇と薬子は再び関係も持ち、薬子は上皇の寵愛を受けて出世するも、伊予親王の怨霊により体調が優れないと信じ、旧都の平城京に移ります。
ここから先帝の平城上皇と、譲位された嵯峨天皇は自らの信頼のおける者で朝廷を運営しようと権力争いが激化します。
平安京と平城京の二所朝廷となり、政治は混乱します。
嵯峨天皇は先手を打ち、将軍 坂上田村麻呂を派遣すると、武威を恐れた平城上皇は出家し、首謀者の薬子は服毒自殺します。
首謀者の死と上皇の出家により、嵯峨天皇は事件を終息させました。
薬子の変において空海は嵯峨天皇を支持し、国家鎮護の大祈祷を行いました。
嵯峨天皇の信任を厚くした空海は、修行道場として高野山の下賜を願い許可され、乙訓寺 別当や宮中の官人の指導などで仕え、また、故郷 讃岐国の灌漑用溜め池の満濃池の大改修工事では、唐で学んだ土木技術を生かして改修を成し遂げ、さらに真言密教の布教にも熱意を傾け、823年 弘仁14年、平安京の官寺である東寺を嵯峨天皇より賜りました。
東寺を京における真言密教の拠点とし、民衆への学問の門戸を開く宗芸種智院の開設など、あらゆる人々のために行動します。
空海は830年 天長7年辺りから病を得て体調を崩し始め、それ以降は真言密教の布教と存続に心血を注ぎ、832年 天長9年、高野山で最初の万灯会を行い、有名な【虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなばん。】という願文を記します。
さらに暮れに、毎年正月に宮中で後日七日御修法【ごしちにちみしほ】~正月1日から7日まで宮中で行われる、神事である宮中前七日節会に対する行事で、834年 承和元年、に、仁明天皇の勅を奉じて、空海が宮中真言院にて、国家安泰(こっかあんたい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に催すもので、明治元年の廃仏棄釈まで続きました。
835年 承和2年 2月空海の身はいよいよ重篤となり、高野山 金剛峯寺が定額寺となり、3月に弟子たちに遺訓を残し、3月21日に入定しました。
ただ、高野山は、次に仏陀が弥勒菩薩が教えを説く場所で、空海は瞑想の境地に留まり、未だ仏陀を待っているという信仰から、現在でも日に二度、僧が食事を奥の院に運んでいます。