平家越 碑
静岡県富士市新橋町
伊豆へ流された源頼朝が挙兵したという知らせが京の平清盛にもたらされたのは、1180年、治承四年9月3日のことでした。
清盛はかつて母、磯野禅尼の必死の嘆願により頼朝を助命して伊豆、蛭ヶ小島へ配流処分とし、監視には伊東祐親を付けて以来20年あまり、平家全盛の世を謳歌して半ば滅亡寸前の源氏の嫡流のことなど忘れていたことでしょうが、後白河法皇との暗闘、以仁王の挙兵に忙殺され、驚愕しますが、孫の維盛(これもり)を総大将として、追討軍派遣を決定し、東国を鎮めよと、鎮圧の軍勢を差し向ける命を出します。
この時点で石橋山の戦いに敗れ、間一髪、敵の追撃から逃れた源頼朝は、真鶴から舟で海路、安房国(現在の千葉県南部)に渡りました。
清盛の命じた通り、直ぐ様 軍勢を駿河、伊豆、鎌倉へと差し向けていれば、平家の完勝だったかも知れませんが、維盛は古参の家人、伊藤忠清と軍勢の進発に際し、吉兆を占って直ぐ様の出陣は縁起が悪いと揉め、ずるずると日程を費やしました。
維盛が出陣を躊躇っている頃、頼朝は安房国で、かつて幼少の頃から昵懇の間柄だった在地武将の安西景益が帰順して加わり、さらに北上して上総国に入り、この地最大の勢力にあった上総広常、千葉常胤といった房総半島の有力者たちを味方につけることで、軍勢を拡大させました。
20年余り続く平家全盛の世。武家でありながら、貴族の如くこの世の春を謳歌していた清盛の孫の世代には、事の重大性を理解していたのかは不明ですが、維盛を総大将とした追討軍が福原を発ったのは治承四年9月22日のことでした。
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