ウイリアム・スミス・クラーク像
札幌市豊平区羊ヶ丘1番地 さっぽろ羊ヶ丘展望台
北海道民 【道産子~どさんこ】で、世代を問わず、ウイリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)を知らない人は、まず居ないでしょう。
また、不朽の名言
~ボーイズ ・ビー ・アンビシャス~
~青年よ大志を抱け~
この言葉も、北海道民~道産子~には、忘れられない言葉です。
昨年、新聞社をはじめとした調査で、北海道に貢献した歴史上の偉人として、トップ10の2位に入ったのがクラーク博士です。
【1位は北海道の名付け親~松浦武四郎、3位に衆院議長 故・町村信孝の父で、北海道知事を三期務めた町村金吾。9位にはなんと大泉洋がランクイン 】
1位の松浦武四郎が北海道の名付け親なら、
2位のクラーク博士は、北海道開拓の父とも言えると思います。
ウイリアム・スミス・クラークは、アメリカ、マサチューセッツ州生まれで、学力優秀によりドイツへ留学、20代で教授となり、博士号を習得。
帰国後、マサチューセッツ農科大学 アマースト校の学長となり、動植物学に加え化学、農業教育と、様々な分野に精通していました。
また、教え子に、初の日本人留学生 同志社英学校【現在の同志社大学】を設立した新島襄がいました。
群馬県安中に生まれた新島襄ですが、アメリカへは、函館港から密航により渡りました。
クラークの授業を受けた新島は、日本人初の学位習得者となり、教え子、新島襄との出会いは、クラークを日本へ導く縁となります。
新島襄は、訪米中の岩倉使節団の木戸孝允らと出会い、通訳者として同行を要請され、その中で、明治政府が北海道開拓のために、優れた教育指導者を探していることを知り、クラーク学長を挙げました。
明治政府による北海道開拓は、明治7年に黒田清隆が開拓長官に就任するとより加速し、黒田清隆は優れた外国人指導者(御雇い外国人)を招聘するにあたり、農業教育の指導者として、クラークに訪日を熱心に要請し、クラークは一年間の約束で訪日します。
明治9年、明治天皇が北海道行幸を行った夏、北海道開拓と、農業指導者の育成を目的に設立され、札幌農学校【後の北海道大学】の初代教頭として来日したクラークは、聖書に基づく人格教育と、農業の実践教育に情熱を捧げました。
当初は厳格なクラークの指導を快く思わなかった学生達も、生徒の自律と自主性を重んじる教育姿勢に生徒も感化され、熱心に指導を仰ぎました。
クラークは共に訪日したマサチューセッツ農科大学の優れた教え子達を後の指導者として学校を託し、明治10年4月16日、北海道を去ります。
クラークとの別れを惜しむ教え子達は、見送りと称して、札幌から約30キロ離れた島松まで馬で並走しました。
〜Boys, be ambitious〜
~青年よ、大志を抱け~
の言葉を残し、去りました。
わずか8ヶ月余りの札幌での指導でしたが、1期生の教え子には、佐藤昌介(北海道帝国大学総長)や、大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)といった教育者から伊藤一隆(道庁勤務を経て石油会社経営者)、クラークの跡を継いだ二代教頭のウィリアム・ホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは、5000円札のモデルにもなった新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)といった面々を輩出し、彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。
北海道開拓の初期に輝かしい功績を残したクラークですが、アメリカでの晩年は鉱山経営の失敗に破産、さらに相次ぐ訴訟に悩まされる失意の日々を送って体調を崩し、59歳でこの世を去ります。
臨終の床で、クラークは、~札幌で過ごした9ヵ月こそ、私の人生で輝かしい瞬間だった。~と言い残しました。