土佐坊昌俊 邸宅跡
神奈川県鎌倉市雪ノ下
文治元年(1185年)10月9日、源頼朝から義経を暗殺する命を受けた土佐坊昌俊が83騎の手勢で上洛しました。
都の警察組織を管轄する検非違使の義経には既にこの手勢の情報を獲ていました。
義経は土佐坊昌俊をあえて泳がせたまま、後白河法皇の警護を重視し、自らの守りは手薄に思える程少ないものでした。
10月17日、堀川の義経の邸宅を土佐坊昌俊の手勢が襲撃しますが、待ち構えていた義経主従と激戦となります。
義経、佐藤忠信、喜三太の弓の得意な三者により土佐坊の手勢は次々と討たれる始末、それに騒ぎを知った義経の従者が舞い戻り乱戦となります。
そこに頼朝との関係が破局した叔父の源行家が義経の援軍として参戦して勝負がつきました。
敗走した土佐坊は鞍馬山へ逃げるも、そこは義経が遮那王を名乗った少年時代に武門の基礎を学び、夜な夜な修行に励むべく山中を駆けた場所にて、容易に見つかり捕縛されました。
捕らわれた土佐坊は鎌倉での顛末を白状して頼朝と義経兄弟、破局を確信した後、最期は京の六条河原で首を晒しました。
この後、義経は頼朝追討の宣旨を後白河法皇に掛け合い出させるも、応じる者はごく僅か、逆にこの判断は義経と頼朝の政治力の差を露呈することとなり、義経は都を逃れざるを得ない結果となりました