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鵐の窟跡
神奈川県足柄下郡真鶴町
石橋山の戦い
鵐(ししど)の窟(いわや)跡は、治承四年(1180年)8月17日に平家追討を宣言して挙兵した源頼朝が、平家方の伊豆目代の山木兼隆を討ち、緒戦の勝利を掲げたものの、その後、8月23日、平家方に与する大庭景親と相模で戦いとなります。
頼朝は頼みとした三浦半島を支配する三浦義澄らの参陣が豪雨で遅れたため、約10倍もの兵力差で戦うはめとなります。
夜戦となった戦いは、数に勝る大庭軍の勝利と
なり、頼朝は北条時政、土肥実平らの主従に守られて敗走します。
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自らの所領であることから地理に詳しい土肥実平により大庭軍の追手から必死に逃れて頼朝主従。
ついに主従は真鶴岬の鵐の窟という洞穴に隠れます。
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大庭軍の兵がこの穴が怪しいと覗き込むも、鵐〜(しとど、セキレイ鳥)が飛び出したために人は居ないだろうと立ち去ります。
石橋山の戦いで大敗したものの、逃れた地が土肥実平の所領ということから隠れ場所を転々として窮地を脱した頼朝、真鶴の実平の領民は手を尽くして頼朝を匿います。
頼朝は北条時政 父子を甲斐武田氏への協力を託して派遣し、土肥実平主従と真鶴から船で安房(現在の千葉県)房総半島へ渡り、再起をはかります。