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小林多喜二 文学碑
北海道 小樽市 旭展望台
小林多喜二。
彼の生み出した最高傑作【蟹工船】。
今や働く現代人にとって当たり前の権利ともいえる労働者としての人権を、逃げ場の無い密室とも例えられる洋上の工船で命懸けで問う内容は、資本主義の危うさと、やがて多喜二本人が傾倒して行くことになる暴利、搾取、の無い平等な世界といった共産主義の理想を見事に描かれました。
多喜二が生まれたのは、蟹工船のほとんどの労働者の出身である東北地方のひとつ、秋田県大館市で、多喜二が4歳のとき、一家で伯父の招きもあって北海道小樽市に移住しました。
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小林多喜二住宅跡
小樽市若竹町 小樽築港駅前
近年の小樽築港界隈は、新日本海フェリーターミナルや、グランドパーク小樽(旧ヒルトン小樽)、イオン、ビバホーム、ニトリ、イオンシネマを併設した巨大複合ショッピングモール〜ウイングベイ小樽といった一大レクリエーションタウンのような発展を見せるものの、多喜二の一家が移住した明治時代後期の小樽築港界隈は、蛸部屋と称されるバラック小屋が建ち並び、後の多喜二による蟹工船の作中に描かれる世界さながらの下層労働者の現実世界がありました。
多喜二の育った明治時代後期から大正時代にかけて、戦勝しながら賠償金を獲ることも出来なかった日露戦争後の恐慌の影響は、小樽市にも大きなものでした。
港湾都市、小樽市は現在魅せる美しい観光都市とは真逆の、過酷な労働を強いられる漁船、工船の出る港として、後に多喜二が蟹工船の作中で書き記す〜オラ、地獄さ行くんだべ〜の台詞で表現されるような暗いものでした。
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旭展望台への山道
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現在の小樽商科大学に近い旭展望台へ通じる山道沿いに多喜二の文学碑が建立されています。
小樽商業高等学校(現在の小樽商科大学)の在学中あたりから共産主義の理想に傾倒した多喜二は、卒業後に北海道拓殖銀行へ入行し、恵まれた生活を出来たであろうにも関わらず、執筆作品を通じて当時の日本政府、政治体制、労働者を酷使する社会といった、あらゆる権力に批判的な執筆活動は1928年、昭和4年に蟹工船を発表し、さらに小樽の小作人と労働者との闘争を描いた不在地主を発表するなど、勢力的に執筆活動に入ったことで銀行を解雇され、投獄と保釈を繰り返す日々となりながら、共産党へ正式に入党して政治活動は盛んになった1933年、昭和8年2月20日、警視庁特別高等警察【通称〜特高】に逮捕され、壮絶な拷問を受け虐殺されました。
特高は心臓麻痺と発表したものの、前歯は折られ、首には締められた跡、腹部は膨れ上がり、紫斑の内出血が凄まじく、壮絶な暴力によるものと明らかな遺体の様子で、多喜二の遺体と対面した母、セキは、多喜二の遺体を抱きしめて、〜息子は心臓がよかった、心臓マヒで死んだなんてウソだ。それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか〜と涙ながらに叫んだそうです。
多喜二の亡骸は、多喜二が生前に購入しておいた小樽市奥沢墓地に埋葬され、2月20日の多喜二の命日には多喜二祭が開催されます。
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文学碑から観た小樽市の街並み。