和気清麻呂 公像
京都市上京区桜鶴円町 護王神社
桓武天皇に平安京への遷都を奨めた忠臣 和気清麻呂は、楠木正成と並び皇統断絶の危機を救った忠臣と称されています。
奈良時代末期、女帝 称徳天皇の寵愛を受けていた僧 弓削 道鏡が皇位すら狙い、宇佐八幡の神託と称して皇位につこうとしたとき、寵愛はしても、さすがに皇位を譲ることは躊躇した称徳天皇に神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは、神霊もこれを激怒すとし、さらに【臣下が皇位に就いたこと、未だこれなし。】と声高に天皇に訴えて道鏡の野心を退けました。
そのため,道鏡の怒りを買って大隅に流され、配流の道中、命すら狙われるも臆せず、雌伏の月日を送りました。
770 年 宝亀元年、女帝 称徳天皇が崩御すると状況は一変し、権勢を謳歌していた道鏡は即位した光仁天皇に下野国(現在の栃木県)の下野薬師寺別当へと命じられます。(体のいい配流)となり、道鏡の子らは捕らえられて罪人として土佐へ流されます。
こうして道鏡の一派が朝廷から一掃されると、清麻呂は光仁天皇により京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり,和気清麻呂と名乗ります。
清麻呂は、長岡京の造営が停滞しているため、桓武天皇に葛野 (かどの~現在の京都市 ) への遷都を建議し、桓武天皇も和気清麻呂の進言を容れ、天皇は狩りを名目に葛野へ出掛けて視察し、ついに平安京遷都を決意します。安心した清麻呂は平安京遷都から5年が経った799年 延暦18年に66歳で没しました。