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日本歴史紀行

歴史紀行 40 八幡太郎 源 義家 像



八幡太郎 源 義家 像

東京都 府中市 宮本町馬場大門


河内源氏の棟梁である源 義家が八幡太郎と呼ばれる由来は、義家が七歳の時(幼名 源太丸)、氏神の岩清水八幡宮で元服したことから称されます。




前九年の役

1051年 永承6年、陸奥国の豪族の長、安倍頼時、貞任父子が朝廷への年貢を度々怠ったために陸奥守、藤原登任が討伐すべく開かれた戦端の前九年の役で、藤原登任が敗れたために義家の父、源 頼義が鎮守府将軍として後任の陸奥守として赴任することになると、義家も父 頼義に従って赴きます。

戦いは頼義、義家父子は安倍氏の地の利を生かした作戦と厳冬の気候に散々悩まされて苦戦し、味方は次々と討たれ、あわや父子もろとも討死という事態になり、主従僅か七騎となりながらも義家の奮戦により死地を脱したものの、その後も苦戦は続き、戦端開始から8年を擁した1062年 康平5年、出羽国の清原氏の援軍を得て、辛くも勝利しました。


後三年の役

前九年の役終結後、義家の父 頼義はこれまでの敵味方の菩提を弔うとして出家し、義家が名実共に源氏の棟梁となりました。

1083年 永保3年、出羽の清原氏の内紛が発端となり、義家は陸奥守、鎮守府将軍として再度、陸奥へ下向します。

義家は清原氏当主である清原真衡(さねひら)を推し、対立した清原家衡と清衡は攻め込むも大敗を喫したことで降伏したために戦は終わるかに見えました。

ところが、所領への帰途、義家が推していた真衡が急死したことにより、事態は複雑化します。

義家は真衡の遺領を分割して家衡と清衡に与えますが、この分割に不満を持った家衡が清衡の館を急襲し、清衡は妻子を殺され、辛くも館を脱しました。

義家は家衡討伐を決意、清衡と共に家衡の籠る沼柵を攻めるも頑強に抵抗され、戦いは年を越します。

義家は籠る家衡と将兵に兵糧攻めを行い、持久戦となる中、飢えに苦しみ柵から出て来た者をことごとく殺戮し、恐怖を植え付けます。

この惨状に家衡は柵に火をかけて逃亡し、痩せ細り逃げ遅れた者達は、義家と軍勢により男女の例外なく次々と斬られ、阿鼻叫喚の叫びが響く中、僅かに生き残った妻女は義家の郎党に与えられるという徹底ぶりでした。

この義家の徹底した諸行に梁塵秘抄では、

~鷲の棲む深山(みやま)ににはなべて鳥は棲むものか 同じ源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや~
と表しています。



後日、汚れ衣装で変装した家衡は捕らえられ、例外なく斬首され、後三年の役は終結。
頼義、義家 父子による12年の陸奥の戦いは終わりました。

清原清衡は、役の後、姓を実父の苗字 藤原氏へと変え、清衡の孫が奥州の王として君臨する藤原秀衡が誕生します。

陸奥を平定して凱旋した義家でしたが、朝廷は、この戦いは私戦であるとして義家に軍費の恩賞は一才与えませんでした。

義家は自分に従って戦った将兵に報いるため、私財を投げうって将兵らの恩賞として与えたことにより、武家の棟梁の鏡と称えられ、源氏の声望は高まり、やがて関東で力を蓄える源 義朝と、平家に変わる武家政権を築く源 頼朝の開いた鎌倉幕府の屋台骨を支える御家人をまとめることとなりました。





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