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〜そなたは三河へ下向しなさい
豊臣秀吉が亡くなり、家康と豊臣五奉行〜とりわけ石田三成との関係が険悪となり、いまにも三成が伏見の家康の屋敷を襲うという噂が聞こえ出し、黒田長政、加藤清正ら、家康を守ろうと三成を憎む諸大名らが、こぞって徳川屋敷の周囲を警護していました。
そうした中、どこから来たのか わからない坊主頭の武士が、小者一人に槍を持たせて暮六時ころから明け六時ころまで御門脇あたりに居て、夜が明けると帰るということを、一晩も欠かさず繰り返していました。
諸大名の手勢からも異彩に映る坊主頭の武士の姿に、徳川家中の者の目からも噂となるも、誰もその武士を知らないことから、家臣が家康にその様子を申し上げたところ、〜その者は水野藤十郎に違いない、また来たならば招き入れなさい。対面しよう〜と申しつけました。
夕方になり、またその武士が現れたので、その仰せを伝えたところ、【有り難き仰せ、かしこまりました。】と言って御膳に召し出されたところ、その者は紛れもなく水野藤十郎勝成という元三河武士で、家康の伯父にあたる水野和泉守勝重の倅でした。
藤十郎勝成は、勇猛な若武者だったものの、行き過ぎた勇猛さで日頃の父の教訓も及ばず、ある合戦に眼病を患い、兜を外して出陣したのを父に咎められ、【その方の兜は小便壺か?】と罵られたりといった諍(いさか)いも日夜絶えず、父、勝重も勘当を告げる始末、ついには藤十郎の無作法を告げ口した父の家人を斬り殺して雲隠れしました。
しばらくは家康が命じて密かに寺に匿っていたものの出奔してしまいました。
その後、藤十郎勝成は、京で無頼の徒と乱闘したり、仙石秀久、佐々成政、小西行長、黒田官兵衛といった四国、九州まで渡り歩き、名だたる大名に仕えるも続かず、最終的には中国、毛利輝元の国人領主、三村親成の十八石という僅かな食客として食いつなぐ日々でした。
その食客先で伏見の噂を聞きつけ、そこも転出して旧主である家康の危機を救うべく参上したという顛末でした。
藤十郎勝成と対面した家康は…
〜そなたの父、和泉守には、わしから話しておく。【〜そなたは三河へ下向しなさい。】と仰せ、再び父子が違いを起こさぬよう仲介人の山岡景友を供回りに加えて発たせました。
和泉守勝重は甥である家康の心遣いに逆らえず、15年来の過去を水に流し、水野父子は和解しました。
藤十郎勝成が帰参して間もなく、父、和泉守勝重は、石田三成の西軍勧誘を断った酒席で斬られてしまい、家康は藤十郎勝成を父の後継に命じました。
関ヶ原の役で、藤十郎勝成は、家康の命で背後の大垣城を抑え役となり、戦勝後に降伏させました。
大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤又兵衛の軍勢を壊滅させ、戦国最後の猛将として戦功を挙げました。
江戸時代も三代将軍、家光の代になった寛永時代。
藤十郎勝成は中国、福山藩主として善政を敷いて民、百姓に慕われ、波乱の生涯を終えました。