吉田茂八碑
北海道札幌市中央区南4条東4丁目
江戸幕府から明治新政府へと政権が変わり、幕府直轄の役所である箱館奉行所からの出先機関である石狩役所そのものが無くなることとなり、原生林の生い茂り、未開同然の札幌を来道して間もない開拓判官 島義勇に道案内までしてやってたものの、豊平川の渡守の職を奪われ、路頭に迷うことになってしまった志村鉄一と吉田茂八。
吉田が兄の様に慕っていた志村は、石狩役所調役という幕府の役人だった荒井金助から直に蝦夷地(北海道)に招かれた経緯から、住まいである渡守屋を兼ねた自宅さえ奪われてしまった仕打ちを受けて去ってゆきました。
吉田茂八の再出発
吉田は、雇われの経緯が足軽から伝手を経て荒井金助に招かれたという事情からなのか、志村の様に自宅まで奪われることはなく(吉田は明治5年頃まで豊平川沿いに居住)、ただし、渡守の職は解かれてしまったことから、開拓が始まり出した札幌の土方で食いつなぐことにします。
志村を追い出す格好で渡守を廃した開拓判官、島義勇は、皮肉にも札幌の都市開発の予算を直ぐ様使い果たしてしまって解任されるという事態を引き起こして札幌を去り、札幌の開発は最初から出鼻を挫くこととなり、まだまだ入植の少ない住民達は、貴重な労働力となります。
これに吉田は上手く適応しました。
渡守の職から土方で食いつないでいたものの、次第に土方の請け負い業者となって10人以上の奉公人を抱え、繁盛すると豊平川沿いから現在の 大通公園近くに邸宅を建て替えました。
請負った水運である堀を掘削すると完成させた堀は吉田堀と名付けられました。
謎の多い最期
請負業は繁盛しましたが、明治12年頃に根室に出稼ぎに出た娘が亡くなった知らせを受け、吉田は遺体の引き取りの帰りに海難事故により行方不明となったとされていますが、定かではありません。
しばらく行方不明のまま、孫娘が除籍謄本を提出し死亡扱いとされました。
大都市 札幌市の開祖は、二人の豊平川の渡守が住んだことから始まりました。
元剣客の志村鉄一と元猟師の吉田茂八、幕末の時代に互いに親しく渡守を生業としていた時代が二人のいちばん幸福な時間だったのかも知れません。