手塚治虫さん原作の映画「どろろ」観てきました。
原作の漫画やアニメは見たことがないので、特別に思い入れがあったわけではないのですが、命の大切さを描いた物語というところにひかれて、ぜひ観に行きたいと思っていたのです。
最近はあまりテレビを見ていないので、世の中の様子には疎くなっているのですが、それでも、インターネットで配信されるニュース記事のタイトルなどを見ていると、毎日のように残虐な事件が起きているようですね。 バラバラ殺人や幼児虐待、いじめや自殺……。このような事件は、何も今に始まったことではありませんが、最近は特に深刻化しているような気もします。
命の大切さというものに対する認識がどこかゆがんでしまっていて、平気で人を傷つけたり、生き物を殺したりしてしまいます。そういったことへの罪悪感すら抱けなくなっています。
たいていの人は、「自分はそんなことは絶対にしないから大丈夫」と思っているかもしれません。しかし、そう思った時点で、あなたは単に「傍観者」になって現実から逃げているだけなのです。本当に危険なのはあなた自身だという現実には、なかなか向き合うことはできません。
毎日どこかで悲惨な事件が起きていることを知っていても、まるでテレビドラマやハリウッド映画でも見ているかのような錯覚を起こし、「しょせんは他人ごと」としか思えない。そういった、私たち一人ひとりの認識の甘さも事態を深刻化させている要因のひとつではないでしょうか。
そして、ほんの些細なことがきっかけで、その手で命を奪っていたりするのです。気がついたときにはもう手遅れで、後悔することしかできません。
そういったことを憂いていたときに、ちょうど「どろろ」という映画が公開されることを知り、このタイミングで作られたこの映画に興味を持ったというわけです。
公開は先月 27 日でしたが、週末ということもあり、初日から観に行っても人が多くて大変だろうなぁという気もして、今日まで待ちました。今日はたいていの映画館では「映画の日」ということで、通常は 1700 円のところを 1000 円で観ることができます。しかも平日なので人は少ないはず。一番最初の上映時間に間に合うよう、朝早くに家を出ました。
映画館は、以前「ダ・ヴィンチ・コード」を観に行った「岡谷スカラ座」です。それ以来だとすると、もう半年以上も映画を観に行ってなかったことになります。予想通り、中はがらがらでほとんど人はいませんでした。ポップコーンを買ってきて、映画館のほぼ中央の座席を確保。ポップコーンをポリポリと食べていると、昔ロスに住んでいたころ、毎週のように友達と映画館に通って、バターたっぷりのポップコーンを食べながら映画を観ていたことを思い出します。あのころは、映画館に行くのがごくありふれた日常の出来事だったのに ……。
さて、映画の感想ですが、「どろろ」は 2 時間以上もある大作であるにもかかわらず、最初から最後まで飽きることなく楽しませてもらいました。ニュージーランドでロケをしたということで、背景の美しさにも期待していたのですが、その辺はほんの数カット、いいなぁと思う場面があった程度でした。まあ、背景を見せる映画ではないので、このくらいのほうがバランスが取れていて良かったのではとも思います。時代劇というと、水戸黄門だとか子連れ狼だとかをイメージしてしまうものですが、ロケ地のおかげで、そういったイメージとはまったく異質な空間を作り出すことには成功していたと思います。
思っていたほどおどろおどろしい雰囲気はなく、残虐な場面も少なく(ショッキングな場面はいくつかありますが)、子供が見ても大丈夫なレベルだったと思います。
他の人のレビューなどを見てみると、CG などで表現する妖怪の技術レベルが低すぎてがっかりしたというような意見をたびたび見かけるのですが、こういった表現は、これくらいのほうがちょうどよかったのではとも思います。リアルすぎると残虐になりすぎるとか、そういうことではなくて、こういうマンガ的なところがあるから映画は楽しめると思うのです。そもそも手塚治虫さんの原作自体が漫画であるわけで、その漫画としての面白さを、実写にしたからといって無理につぶしてしまう必要はないでしょう。実写だからこそ、マンガ的な面白さをどんどん取り入れていって欲しいと思うくらいです。もちろん、リアルすぎて現実との区別がつかなくなるというのも、大変危険なことだと思います。ファンタジーはファンタジーらしく描くべきなのです。
主人公の百鬼丸に妻夫木聡さん。どろろに柴咲コウさん。最初から最後まで、ほとんどこの 2 人だけで話が進んでゆきます。まるで二人舞台でも見ているような感じです。そういうシンプルな構成なので、非常にわかりやすい映画でした。(関係ないですが、「劇団ひとり」も出てたりして。)
男の私が見れば、普通は女優の柴咲コウさんに目が行ってしまうものですが、今回は、妻夫木聡さんがあまりにもかっこよくて、男の私でもほれぼれしながら見入ってしまいました。妻夫木聡さんが出ている作品は今回初めて見たのですが、少なくともこの映画では非の打ち所のない最高の演技だったと思います。やっぱり、ただのイケメンアイドルとは違いますね。
柴咲コウさんのほうは、「どろろ」を演じるという点では見事だったとは思います。ただ、残念なことに、女性としての魅力ゼロの役柄。それは仕方のないことなんですが、なんで柴咲コウさんなのかなぁと、最後まで腑に落ちないまま終わってしまいました。カワイイけれどブサイク(カワブサ?)でした。
悪役(百鬼丸の父)の醍醐影光役に中井貴一さん。貫禄のある演技で、この映画をきりっと引き締めてくれました。百鬼丸のような若者が父を乗り越え大きく成長していくというテーマ(たくさんあるテーマのひとつですが)を描くには最高の配役だったと思います。前半のシーンで、自分の子供を犠牲にしてでも野望を成し遂げようとする醍醐景光が描かれますが、それはまさに、現代のもっとも忌むべき悪を象徴したものといえるでしょう。最後には、逆に自らを犠牲にして子を救うことになるわけですが、今の大人たちも、これからはそういった使命に目覚めるべきなのです。
百鬼丸は自分の体の 48 ヶ所を魔物に奪われているので、死体から作った人工の体を持っています。最初に出来上がったのが人工心臓。手足のみならず、目も耳も、声もすべて人工です。まるでフランケンシュタインのような体なのですが、魔物を倒すことで奪われた体のパーツをひとつずつ取り戻すことができます。
人工の部分は魔法の力がかけられているのか、刺されてもすぐに傷がふさがってしまいます。心臓すら人工なので、ほとんど不死身です。一度、どろろに心臓を刺されたこともありましたが、もちろん平気でした。
喉を取り戻したときは初めて自分の声で喜びの叫びを上げ、耳を取り戻して初めて聞いたどろろの声に「うるさい」とわめき、取り戻した腕を魔物に噛み付かれて血を流し、苦痛にうめく。目を取り戻して初めてこの世界の美しさ(ニュージーランドの背景が映えます)を知る。体を取り戻すごとに、「なんだか世界が小さくなったようだ」と百鬼丸は言う。
でも、それが生きているということなんだと、百鬼丸が感じていたように、観客もまた気づき始める。
心臓を突き刺しても死なない百鬼丸は、まさに、「命の大切さ」を見失ってしまった現代の我々の感覚を象徴した存在です。そこには、生きる喜びなど感じられるはずもありません。世界はただ虚しいばかり。
今こそ、私たちも百鬼丸のように失ったものを取り戻し、「命」というもの、「生きる」ということ、そして、「死」というものに、真剣に向き合うべきなのです。
この映画の最後に百鬼丸が取り戻した体は「心臓」でした。私はこれを見て救われたような気がしました。体のパーツはまだ半分残っているので、これで最後というわけではないのですが、心臓を取り戻したことで、ようやく生きた血の通う人間らしさを取り戻したような気がしたのです。
百鬼丸はもう不死身ではなくなってしまいました。刺しても傷は消えないし、いつかは死ぬのです。でも、それが、人間らしく生きるということです。限りある命だからこそ、生きる喜びもある。この映画を見て、ひとりでも多くの人にそういったことを感じてもらえればと思います。
必死に生きて何が悪い!