Apu の All That I Am

公開備忘録のような投稿です。もしご興味をお持ち頂けましたら、PC版でご覧下さいますと嬉しいです!

乗鞍・大黒岳からの眺望 ~ お気に入りの一枚 ~



   

 以前に家族で乗鞍に出かけたときに撮った写真です。太平洋沿いに台風が通過していった翌朝に登りました。大変素晴らしい雲海も見ることが出来て家族で感動しました。マイカー規制があって、鈴蘭でバス待ちをしていた時に娘とUFO?を見たのも良い思い出です。その後、野生の熊が観光客を襲ったことがあり、うちの家族はもう行きたくないと言っています(涙)まぁ、そう言いつつもまた連れて行くつもりですが!この時の写真をスライドショーにしました。やっぱり雲海が素晴らしかったです。是非 「 乗鞍と大黒岳からの眺望 」 のリンクから見て行ってください。

もし記事にご興味がございましたら、カテゴリー毎にご覧くださると読み易いかと思います。
ページ最下部は「あぷ日記 Photo アルバム」です。過去投稿した写真のスライドショーです。
ちなみにニックネームの「あぷ」ですが、かれこれ十数年前のこと、言葉を覚えたての下の娘が「パパちゃん」と言えずに「あぷちゃん」と喋っていたのが由来です。しかし、こんな腰砕けなニックネームいつまで使うのだろうかと、そろそろ疑問と限界を感じております…(^^;)

7.見られている対象物である世界は、いつ消えてゆくのでしょうか?

2011年05月10日 | ラマナ・マハリシの言葉
 すべての認識作用と、すべての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





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 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

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6.なぜでしょうか?

2011年05月10日 | ラマナ・マハリシの言葉
 見る者と、見られている対象物とは、ロープと蛇のようなものである。蛇という間違った知識が消えないかぎり、実体であるロープという知識はやってこない。同じように、実在するものとしての自己の実現は、世界が実在するという信念が消えてしまわないかぎり得られないだろう。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





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5.世界がそこにありながら・・・

2011年05月08日 | ラマナ・マハリシの言葉
 世界がそこにありながら(実在としてとらえられながら)、自己が実現されるということはないのでしょうか?

 ないだろう。

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4.自己の実現はいつ得られるのでしょうか?

2011年05月03日 | ラマナ・マハリシの言葉
 「見られているもの」である世界がぬぐい去られたとき、「見るもの」である(*3)自己の実現がやってくるだろう。

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3.自覚の本性はなんでしょうか?

2011年05月03日 | ラマナ・マハリシの言葉
 自覚の本性は、存在-意識-至福である。

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2.私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

2011年04月30日 | ラマナ・マハリシの言葉
 今述べたことのすべてを「これではない」、「これではない」と否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが私である。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





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1.私は誰でしょうか?

2011年04月27日 | ラマナ・マハリシの言葉
 七つの気まぐれな部分(頭部・両手・胴体・生殖器・両足)から成るこの粗大な身体、私はそれではない。五つの感覚器官、聴覚・触覚・視覚・味覚、そして嗅覚は、それぞれの対象である。音、感触、色や形、味、そして匂いをとらえるけれども、私はそれらではない。五つの能動的な器官、発声・運動・認識・排泄および生殖器官は、それぞれに話すこと、動きまわること、認識すること、排泄すること、楽しむことを機能するが、私はそれらではない。(*1)五つの生気、すなわち(*2)プラーナその他のものは、それぞれ吸気その他の働きをするけれども、それらは私ではない。ものごとを考える心すらも、私ではない。対象物の印象のみが刻みこまれている無知、そこに対象物の働きかけもない無知も私ではない。

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私は誰か Who am I ?

2011年04月23日 | ラマナ・マハリシの言葉
 すべての生きものは、いつでも幸福であることを願い、悲惨ではないことを願っている。私たちひとりひとりについて考えてみても、そこに自己への至上の愛があることが認められる。その愛の泉はただ一つ、幸福である。人間の自然性である幸福、心のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れるためには、人は自己を知らねばならない。自己を知るためには、「私は誰か」という問いで自己を尋ねる知識(ジュニャーナ)の道が、最も重要な方法である。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 冒頭部分 ⇒続く





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あぷ日記 Photo アルバム