Apu の All That I Am

公開備忘録のような投稿です。もしご興味をお持ち頂けましたら、PC版でご覧下さいますと嬉しいです!

乗鞍・大黒岳からの眺望 ~ お気に入りの一枚 ~



   

 以前に家族で乗鞍に出かけたときに撮った写真です。太平洋沿いに台風が通過していった翌朝に登りました。大変素晴らしい雲海も見ることが出来て家族で感動しました。マイカー規制があって、鈴蘭でバス待ちをしていた時に娘とUFO?を見たのも良い思い出です。その後、野生の熊が観光客を襲ったことがあり、うちの家族はもう行きたくないと言っています(涙)まぁ、そう言いつつもまた連れて行くつもりですが!この時の写真をスライドショーにしました。やっぱり雲海が素晴らしかったです。是非 「 乗鞍と大黒岳からの眺望 」 のリンクから見て行ってください。

もし記事にご興味がございましたら、カテゴリー毎にご覧くださると読み易いかと思います。
ページ最下部は「あぷ日記 Photo アルバム」です。過去投稿した写真のスライドショーです。
ちなみにニックネームの「あぷ」ですが、かれこれ十数年前のこと、言葉を覚えたての下の娘が「パパちゃん」と言えずに「あぷちゃん」と喋っていたのが由来です。しかし、こんな腰砕けなニックネームいつまで使うのだろうかと、そろそろ疑問と限界を感じております…(^^;)

岸田劉生

2007年04月13日 | あぷ こころの風景 思索

 最近、今頃?といわれるかも知れないがパソコンでのビデオ予約を覚えた。良く録画するジャンルは歴史、宗教、科学、健康、…とこの辺りは今まで通り。しかし自分でも思いもよらないジャンルにも目が向き始めているようで、実はそれが「絵画」の世界。子供の頃、美術で学習した時分には全くと言って良いほど意識しなかった世界。まだまだ知らない事だらけなのだが、一枚の絵画の背景にあるもの…、時代背景、画家が受けた影響とその思想の変遷、そして人生…。忙しない日々の中で、有難くも録画した芸術番組を観ることで知った絵画の奥深さに共鳴している自分が居る。画家の心の葛藤が生み出す作品が此れほどまでに観る者を引き付けるのかと改めて感心し始めている。

 岸田劉生自画像

 何本か録画したビデオを観て気になったのは『岸田劉生』。自分は彼に対する知識は殆どないが、ゴッホやセザンヌの影響を受け画風も変わっていく中で日本人が描く洋画はいかにあるべきか、そして「存在(それがそこにある…という不可思議と充実感)」への問い、人間が持つ愛情との対峙。彼は自身の中でうごめくものを表現する絵画という方法(術・手段)を持ち得たのは幸せであったろうと思う。

 麗子微笑

 これからも絵画を通じて見える彼の深い洞察にもっと触れてみたいと思う。

 道路と土手と塀

 


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居場所

2007年04月13日 | あぷ日記
知らねども
その中に居る自分かな
我も人なり
人も我なり


平成18年正月


幾人かに好評でしたので忘れる前に投稿する。
写真は18年暮れの横浜ランドマークタワーより撮影。

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十七清浄句(煩悩即菩提)

2007年04月01日 | あぷ こころの風景 思索
 「十七清浄句(煩悩即菩提)」を獲得する上で必要なことは、分別(精査して理解して…)により様々知ることも大事なのでしょうが、結局は加持による合一(仮に一体感とでもしておきましょうか…)が重要なのだと考えます。このことを前提に自分が思うところも述べさせて頂きます。

 さて、前文と矛盾をするようですが、それでも意密という意味で頭で知る(理解する)ことが大事なことであることに違いはないとも思います。それは華厳経の世界や大日経の「大悲胎蔵曼荼羅」、金剛頂経の「金剛界曼荼羅」、般若心経の空観、特に金剛さったの「五秘密尊(曼荼羅)」…など理趣経成立までの様々な歴史及び仏教思想を知ることから始まるのでしょう。…だからと言って自分自身が上記経典や曼荼羅を理解しているわけではありませんが、【○○○○さん】の投稿『> 経典だけの理解によって、理趣経の文言を解すことは不可能であると思える。』にもございます通り、改めて理趣経のみで理解を深める事の不可能さに今更ながら気付いたものであります。さらに三密(身密・口密・意密)加持を行った上での即身成仏となると全くもって一般人には到底無理な所業にすら思えてくるのです。

 ただ、なんとなくですが「十七清浄句(煩悩即菩提)」に関して私が理解(とりあえず、こんな感じかな…と)できるのは総てが大日如来の顕現であることから、この世界に存在する物に不浄な物はないとする考えと、その大いなる大日如来の内側で幸か不幸か自由意志を持たされ生きている自分(たち)の所業との接点を述べているのではないか?…と言うことです。しかし、その文言のままではこの世界は無法地帯になりかねません。やはりきちんと理解(この期に及んでまだ「理解」…とな^^;)するには弘法大師が著した「秘密曼荼羅十住心論」なり「弁顕密二経論」、「三教指帰」等々に触れる必要性が出てくると思います。

 私自身は理趣経の大事な部分(トピック違いと思いますが…)は第十七段であって、特にその後半「百字の偈」だと思います。「金剛さった」の存在意義はこの部分にあると思いますし、翻って自分(たち)自身がその「金剛さった」であることに(様々な経典や行を通じて)気付く必要があると思うのです。

 繰り返すようですが、私は理趣経・十七清浄句は文言のみでは到底理解不能であろうことに気付き始めました。このコミュニティを始めたことすら恐れ多く感じています…(苦笑)ここ何ヶ月か真言宗系の寺院を回り、全く拙い体験ですが積み重ねて思ったことは、実体験こそが大事であり、その積み重ねる実体験の中からこそ「神秘の実在」を掴む事ができると言うことです。そして自分が講釈を垂れる立場に無いこと、まだまだ行を修める必要があることにも気付きました。

 …と言うことで、大変申し訳ないのですが私は近々にこのコミュニティは3月末までには閉鎖しようとも思っています。どなたか引き継ぎたい方が居られるようでしたらご連絡下さい。コミュニティ名など変更されて構いません。全く無責任で恐縮ですが宜しくお願い申し上げます。

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以前に mixi に投稿した文面です。まぁ、実にいい加減な管理人でした…(汗)

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あぷ日記 Photo アルバム