先日、桜もまさに満開だった、砧公園にある
世田谷美術館の「岸田吟香・劉生・麗子~知られざる精神の系譜~」へ行って来ました。もうだいぶ前、NHK新日曜美術館で岸田劉生の静物画を特集を観たのがきっかけで、劉生が描こうとした「存在の神秘」「内なる美」「精神の美」…に惹かれて以来、6~7年越しの本物拝見となりました。
「岸田吟香・劉生・麗子~知られざる精神の系譜~」と題されたその内容は、劉生のみならず、劉生の父と娘のことも盛り沢山に展示されていて本当に内容充分でした。自分としては、劉生の父・吟香の存在は知らなかったので、とても新鮮でした。やはりあれだけの絵画を残した劉生には、それを生み出すだけの素地と言うか、それを支えた背景があったんだなと実感させられました。ある意味、恵まれていたというか、劉生が持っていた「徳」ですね。
さて、関東大震災で焼失したと言う、その劉生の
「詩句ある静物(1918)」に書き込まれていたのが、次の詩…
其処に在るてふ事の不思議さよ
実にひれ臥して祈らんか
されど彼は答へはすまじ
実に只描け
在るてふ事を解き得る迄
「存在の神秘」「内なる美」「精神の美」と対峙した劉生が記したその思い。形而上的なことに結び付けるのは早計なのでしょうが、どだい専門家でない自分としては「其処に在るてふ己の不思議さよ」「実に只生きろ」…とでも、自由に読み替え、思い馳せていました。
座禅や瞑想をしていると、どうしても「存在の神秘」というワードが思いの片隅にあるものです。劉生は結核を疑われ、療養生活により自由を失い、死をより身近に感じた時から静物画を描くようになった聞きました。その思いの根っこは、自分存在の危うさ故の、何故自分は其処にいるのか?…という問いであったろう想像します。
人は悩むと心が揺れ動き、心許無くなります。所詮、弱い存在です。なのに、同じように明日をも知れぬ、物言わぬリンゴ(劉生はリンゴの静物画を多く描きました)は、泰然自若として、沈黙して、充実しきって、ただそこに在る…。リンゴを通じて、この存在している充実感を、劉生は己にも見出したかったのではないか?今回、そんなことを思って、展示物を眺めていました。
劉生は「精神の力が一色一筆に込めてある」「自分の道は写実的神秘派と呼ばれてもいい」などと言っていたそうです。「在る」ということの不思議、それを写実を追及しながら、描くことで支配したい…出来ない…この内面の葛藤が真剣になるほど、劉生の絵は奥深く充実して迫力を増していったのかも知れません。
孤独な一個の存在としての充実を自分にも見い出したい。俗っぽく「生きている充実」とでも言いましょうか、強く生きなきゃ…と。「存在の神秘」を追い求めることは、処世術や精神論を超えて「汝を知る」という、誰しもが持つ普遍的で本来的な欲求に繋がっているように思います。
ちなみに、以前のNHK新日曜美術館で、関連で紹介された詩も載せておきたいと思います。
リンゴを ひとつ ここに おくと
リンゴの この 大きさは
この リンゴだけで いっぱいだ
リンゴが ひとつ ここに ある
ほかには なんにも ない
ああ ここで
あることと ないことが
まぶしいように ぴったりだ
まど・みちお 少年詩集 まめつぶうた(1973)
「静物―赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙」(1920)
今回、招待券をくださったMさんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました!