Apu の All That I Am

公開備忘録のような投稿です。もしご興味をお持ち頂けましたら、PC版でご覧下さいますと嬉しいです!

乗鞍・大黒岳からの眺望 ~ お気に入りの一枚 ~



   

 以前に家族で乗鞍に出かけたときに撮った写真です。太平洋沿いに台風が通過していった翌朝に登りました。大変素晴らしい雲海も見ることが出来て家族で感動しました。マイカー規制があって、鈴蘭でバス待ちをしていた時に娘とUFO?を見たのも良い思い出です。その後、野生の熊が観光客を襲ったことがあり、うちの家族はもう行きたくないと言っています(涙)まぁ、そう言いつつもまた連れて行くつもりですが!この時の写真をスライドショーにしました。やっぱり雲海が素晴らしかったです。是非 「 乗鞍と大黒岳からの眺望 」 のリンクから見て行ってください。

もし記事にご興味がございましたら、カテゴリー毎にご覧くださると読み易いかと思います。
ページ最下部は「あぷ日記 Photo アルバム」です。過去投稿した写真のスライドショーです。
ちなみにニックネームの「あぷ」ですが、かれこれ十数年前のこと、言葉を覚えたての下の娘が「パパちゃん」と言えずに「あぷちゃん」と喋っていたのが由来です。しかし、こんな腰砕けなニックネームいつまで使うのだろうかと、そろそろ疑問と限界を感じております…(^^;)

岸田劉生 存在の神秘

2014年04月10日 | あぷ こころの風景 思索

 先日、桜もまさに満開だった、砧公園にある世田谷美術館の「岸田吟香・劉生・麗子~知られざる精神の系譜~」へ行って来ました。もうだいぶ前、NHK新日曜美術館で岸田劉生の静物画を特集を観たのがきっかけで、劉生が描こうとした「存在の神秘」「内なる美」「精神の美」…に惹かれて以来、6~7年越しの本物拝見となりました。

 「岸田吟香・劉生・麗子~知られざる精神の系譜~」と題されたその内容は、劉生のみならず、劉生の父と娘のことも盛り沢山に展示されていて本当に内容充分でした。自分としては、劉生の父・吟香の存在は知らなかったので、とても新鮮でした。やはりあれだけの絵画を残した劉生には、それを生み出すだけの素地と言うか、それを支えた背景があったんだなと実感させられました。ある意味、恵まれていたというか、劉生が持っていた「徳」ですね。

 さて、関東大震災で焼失したと言う、その劉生の「詩句ある静物(1918)」に書き込まれていたのが、次の詩…


 其処に在るてふ事の不思議さよ
 実にひれ臥して祈らんか
 されど彼は答へはすまじ
 実に只描け
 在るてふ事を解き得る迄



 「存在の神秘」「内なる美」「精神の美」と対峙した劉生が記したその思い。形而上的なことに結び付けるのは早計なのでしょうが、どだい専門家でない自分としては「其処に在るてふ己の不思議さよ」「実に只生きろ」…とでも、自由に読み替え、思い馳せていました。

 座禅や瞑想をしていると、どうしても「存在の神秘」というワードが思いの片隅にあるものです。劉生は結核を疑われ、療養生活により自由を失い、死をより身近に感じた時から静物画を描くようになった聞きました。その思いの根っこは、自分存在の危うさ故の、何故自分は其処にいるのか?…という問いであったろう想像します。

 人は悩むと心が揺れ動き、心許無くなります。所詮、弱い存在です。なのに、同じように明日をも知れぬ、物言わぬリンゴ(劉生はリンゴの静物画を多く描きました)は、泰然自若として、沈黙して、充実しきって、ただそこに在る…。リンゴを通じて、この存在している充実感を、劉生は己にも見出したかったのではないか?今回、そんなことを思って、展示物を眺めていました。

 劉生は「精神の力が一色一筆に込めてある」「自分の道は写実的神秘派と呼ばれてもいい」などと言っていたそうです。「在る」ということの不思議、それを写実を追及しながら、描くことで支配したい…出来ない…この内面の葛藤が真剣になるほど、劉生の絵は奥深く充実して迫力を増していったのかも知れません。

 孤独な一個の存在としての充実を自分にも見い出したい。俗っぽく「生きている充実」とでも言いましょうか、強く生きなきゃ…と。「存在の神秘」を追い求めることは、処世術や精神論を超えて「汝を知る」という、誰しもが持つ普遍的で本来的な欲求に繋がっているように思います。

 ちなみに、以前のNHK新日曜美術館で、関連で紹介された詩も載せておきたいと思います。


 リンゴを ひとつ ここに おくと

 リンゴの この 大きさは
 この リンゴだけで いっぱいだ

 リンゴが ひとつ ここに ある
 ほかには なんにも ない

 ああ ここで 
 あることと ないことが
 まぶしいように ぴったりだ

 まど・みちお 少年詩集 まめつぶうた(1973)



 
 「静物―赤りんご三個、茶碗、ブリキ罐、匙」(1920)


 今回、招待券をくださったMさんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました!

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いろは歌

2008年09月22日 | あぷ こころの風景 思索
色はにほへど  散りぬるを

我が世誰ぞ  常ならむ

有為の奥山  今日越えて

浅き夢見じ  酔ひもせず



 大栗道榮大阿闍梨の「空海!感動の人生学」(1984年出版の新編集とのこと)を読んでいます。いろは歌は弘法大師の作とは聞いていましたが「涅槃経」から引用されているとは知りませんでした。確かに「諸行無常」のこの宇宙なのですが、だからこそ今を懸命に生きることの大事さを思いますね。改めて読み返してみると本当に奥深いです・・

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死後の世界

2007年09月06日 | あぷ こころの風景 思索

 故丹波哲郎氏かと思いきや(笑)、さにあらず。先日の某HPへの投稿文です、ご笑納ください。

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 生きていて死後の世界を科学的に証明するのは甚だ難しいと思います。科学的に証明されたとしたら人類の意識を一変させるノーベル賞物でしょう。私はチャネリングとか啓示とかあまり好きではありません。同様にまるで見てきたかのようにあの世について語る人も好きではありません。


 死後の世界が現象として本当にあるならば、この世界との繋がりも必ずあるはずです。それは総ての自然現象は原因と結果で成り立っているからで、プロセスがあり、結果があり、偶然の入り込む余地の無い必然であるからです。


 ただ「虫の知らせ」的な当人にとってはリアルな現象が、その後の現象のタイミングとシンクロニティとにより、五感では感じ取れない世界を認識させるようなことはあると思います。現象を否定することは出来ませんし、偶然と言う解釈はあまりにもお粗末だと思うからです。しかし、その当人にとってはリアルな現象(体験)も物証を伴って説明が難しいため、やはり他人様には理解し難いことに映るかもしれません。


 信仰心とは何でしょうか?死後の世界に対する期待でしょうか?思うに大事なことは体験だと思います。それも真摯な自分への問いだと思います。求めた先に事実としてあの世と言いますか、死んでも死んでいない自分を発見できれば良いのだと思います。他人の話を鵜呑みにして死後の保証を得られるような物ではないと思います。

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真言密教とは

2007年07月02日 | あぷ こころの風景 思索

≪「教理と行証 真言密教の基本」より:三井英光著≫

 真言密教は、一言でいわば神秘体験の宗教であるといえる。心眼を開いて遍く観照する時、生きとし生ける、有りとし有らゆる、すべてのものを包み生かしている大宇宙は、それ自身絶対にして無限、しかも永遠に生き通せる大実在であることが体解出来る。しかしそれは肉眼や五官の感覚や知覚では到底捉え得ないから神秘といい、しかもそれは厳然と在って、すべてを生み出す本源として体験出来るから実在という。この大実在を心に深く知るを覚りといい、そこから魂の悦びも心の安らぎも生まれるし、またその境界に住して自他のために祈れば、真実の利益効験となって現成する。この大実在の内容を心ゆくばかり説き示したのが真言密教の教理であり、それを心にこなし身につけて自在に自らや他の幸福をもたらすための行法がその秘法ともなる。その教理は、人間の宇宙観人生観の至極を窮めており、生きがいある人生を生きぬくための要諦を尽くしている。随ってそれを知ると共にその内容を味わい、それを生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福がわいて尽きないのである。・・・

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 三井英光師の言葉として冒頭部分からの抜粋です。一般人の私には少々難しい内容でしたが、どこか胸躍るような高揚感をもって読み耽った御本です。密教における「神秘の実在」を掴むこと…。この身このままで成仏できるという教えと現世利益。この世に生を受けた自分という存在の不可思議を解き明かす世界がここにはあります。真の自分という大実在を捉えた時、無限の喜びを得ることが出来るということ…。これが真言密教の要髄です。

 以前、私は仏様に助けて頂いたと本当に実感した事(内容は秘す)が過去幾度とございます。元来「信じる(自己を見失い、全くの他力によって)」と言う行為は好きではないのですが、その体験を通じ、事実として認識してしまった現象は否定したり、受け入れずに居ることはやはり出来ないものです。ですからこの場合の「信じる」の意味合いは「絶対なる信頼」と言う次元にシフトしたものだと思うのです。そして仏様の存在を実在として実感すればするほど自らの襟を正し、自利利他の精神を忘れず、「生かされている」という真摯な気持ちで「どんな苦境も自らの糧として生きていく事が出来る」とそう思っております。そして、各々がその置かれた場所での成すべき事(「伝えていく」という)を成すという行為がいかに尊いものかと感じぜずには居れないのです。


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「理趣経と私」と言うトピックで

2007年07月02日 | あぷ こころの風景 思索

ミクシーで投稿した文ですが、こちらにも投稿します。


「理趣経と私」そして「なぜ理趣経に関心を持ったか?」と言うことですが、私の場合そもそもが親の影響と申しましょうか、私自身が和歌山県人のクウォーターということもあり、ある時期、誰もが一度はそうしたくなるであろう自己のアイデンティティを求め紀州へ一人で出掛け、初めて高野山に上ったのが発端と思います。その後、幾度かご縁ある方々を高野山にお連れする機会を頂いたことが、私自身が真言宗に興味を持ち始めた理由であるのは言うまでもありません。時の先達から様々お話を伺う中、日々読誦されている理趣経があられもなく人間欲求(しかも本能的欲求!までも…)を肯定してることを知った時は正直かなりの衝撃でした。


当時、奥の院や宿坊での朝の勤行の雰囲気が忘れられなかった私は、帰ってから理趣経のCDと真言宗常用経典を買い求め見よう見まね(…と言いますか聴きよう聴きまね?)で読経を始めました。全くのド素人が雰囲気に酔って唱えるナンチャッテな読経でしたが、本人にとっては唱え終えると非常に清々しく満ち足りた感覚を覚えたものでした。そして当然の如く何冊かの理趣経解釈本も購入し読み始めたのでしたが…。実は関連する書籍を読み進めると僧でない者が理趣経を唱えたり、理解し観想すること、所謂その「行」を行うことは「越三昧耶(おつさんまや・所謂ご法度!)」であり、法が薄められ大きな間違いとなるとの事から一般人には不可である事を知りました。ならば「…何故、書籍として解釈本が販売され「声明」と称して理趣経のCDが販売されているのか?!!!」などとは思わず素直に自分を責めたものでした(失笑)。


密教は師匠と弟子との間で受け継がれるものと聞いています。高野山で結縁灌頂(金剛曼荼羅・退蔵曼荼羅)とお受戒(※結縁灌頂中にも行われていましたが)を済ませただけですが、現在は私の中での師匠と思しき方のご指導により十善の御教えを出来るだけ(!)守り、少しずつ理解を深めてい最中でございます。


「十七清浄句」につきましては様々に意訳や注釈もございますが、それらは総て「菩薩の位」との記述に在るとおりで、我々「人間の位」の話ではないと私は思っています。ただ、本来それぞれが持つ仏性に付帯する事項として、またその方便として理趣経の冒頭に「十七清浄句」があるのであり、間違っていけないのは「官能に感応」する事だと思います。密教では「三密加持」と言い『身口意(しんくい)』による三密行を行い、仏の「加」と行者の「持」が合一した状態が重要とされているらしく、それこそ「行」をなさず思い込みで理解することの危うさが常に背後に付き纏っているのがこの「理趣経」です。


私もランナーズハイは経験したことはございませんが(例えとしてのですが)ランナーズハイに「意密」は含まれていないと思います。またお唱えすることで仏の波動を自らの声で発した瞬間の「口密」のそれには仏との合一を強烈に後押しする物が実際にあります。そして秘して印契を組む「身密」もその組み方がなされる時にも仏の観想を手助けする物と聞いております(…と申しますのは、私自身は印契の伝授を受けておりませんので)。要するに「経」の文言だけによる理解には限界があるということ、しかも少々の「行」ではその境地は恐らく辿り着けるものではなく、まして「行」なされない感覚(特に肉体レベルに囚われ、間違った思い込みに走ること)だけの解釈は大変危険極まりないということは常々承知しておく必要があると私は思います。


お大師様の「三密加持すれば速疾に顕る(即身成仏儀)」にもあります通り、生きながらにして成仏するという真言密教の真髄である『即身成仏』。その為に必要不可欠な『三密加持』、及び日々読誦される「理趣経」を初めとする様々な仏典や陀羅尼・真言。最終的には仏との合一(入我我入)を目指す訳ですが、その過程において自らが「金剛薩た」であり「大日如来」であるという事実の観得の一過程として「十七清浄句」があるに過ぎず(「五秘密曼荼羅」等から)、所謂「十七清浄句」は方便であると私は思うのです。この自我⇒大日如来への階梯には「倶舎」「唯識」「空観」をも当然必要とし、しかもそれは「三密加持」という行の中にある…。この仏との合一による神秘の実在をシッカリと掴むには「十七清浄句」を入口とし自らが「金剛薩た」であると言うこと、また「百字の偈」を通じ最終的には自らが「大日如来」である(も~ホントくどいですが^^;)よ…と道筋があると思われる『金剛頂経第六会・大樂金剛不空眞實三摩耶經(理趣経)』が結果、密教には最適とされたのではないか?…と私は越三昧耶の分際(笑)で推測するのです。



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ポール・ゴーギャン

2007年06月07日 | あぷ こころの風景 思索

  Paul Gauguin 1848~1903


 ゴーギャンは力強い輪郭線と原色使いを特徴とする画家とのこと。結構、ハッキリした性格だったのかも知れない。ヨーロッパに生まれながら、その数奇な人生から生涯「西欧文明への抵抗」をし続けた画家らしい。それは西欧文明に裏切られたからなのか、幼少期(ペルーで過ごしていた)への憧れなのか・・。人間が持つ野生・・むしろ野蛮なものへの思慕と人間らしさを失った西欧文明への抵抗が、彼に「タヒチの絵」を描かせたと言うが・・・


   「タヒチの女(浜辺にて)」(1891)


 そんな彼も最初のタヒチからフランスに帰るときには、西欧での自身の「タヒチの絵」の成功を夢見ていたらしい。人間の欲得とはそのようなものなのかもしれないし、むしろその成功が西欧への抵抗そのものだったのだろう。しかし、戻った彼の絵はあまり評価されず、失意の底に叩き落される。そしてゴーギャンは再びタヒチに向かう・・・


   
「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」(1897)

※↑クリックすると画像が大きくなります。


 彼は病(梅毒と聞いたが)も患い、タヒチにも見放される。そして追い討ちをかけるような突然の「愛娘アリーヌの死」の便り・・。きっと計り知れない絶望や言い知れない無力感が彼を包んだだろう。結果、彼は自殺を決意する。その時、彼が残したのが代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」(上記)。

 この絵は人間が誕生してから死に至る物語が描かれているとのこと。右から赤ん坊(誕生)と裸の女性、服を着た者(理性)、果実をもぎ取る女性と果実を食べる女の子(失楽園)、青白く光る女神の偶像(彼岸)、艶かしいポーズの女性(運命)、何かを恐れている老婆(死)・・・そして白い鳥・・・ゴーギャンは「人間の人生」をタヒチに在るものだけで描いた。強烈なまでの「死」の現実感、「人間とは何か?」という我々自身の存在への問い・・。「人間」の薄っぺらさと西欧文明を重ね合わせ、あくまでも野生的なタヒチと対峙させる。そして制作後、ゴーギャンは服毒自殺を図る。

 左端の「白い鳥」は軽薄な言葉の空しさを象徴していると聞いた。ゴーギャンが抱いた「人間存在への問い」と本来人間が持つ「野生」への回帰。そして、観る者の理解を拒むような左端の「白い鳥」・・。この腐った人間世界への静かで強烈な抵抗がこの絵を生む。



 「二人のタヒチの女(赤い花と乳房)」


 しかし、彼はそこで終わらなかった。一命を取り留めたゴーギャンは最後の3年間をさらに離れたマルキーズ諸島のヒバオア島で過ごした。そこにアトリエ「快楽の家」を建て、幼い妻を娶ったのだ。彼は未遂に終わった自殺で生まれ変わったと言われる。壮絶なまでに自分の全てを出し切って生まれ変わったのだろう。その後、彼の画風はそれまでと変わり、印象派の絵のように柔らかいタッチと中間色で塗り込められた。そのことが意味するもの・・・それは自我を剥き出しにしていた若かりし頃からの変遷。「人間存在の愛しさ」への昇華。ゴーギャンは生きながら彼岸に渡ったのかも知れない・・・

 「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか」・・本来として誰一人としてこの問いに向き合わずにはいられないだろう。この問いは我々の人生と存在への問いであり根本的である。もし、この問いに盲目だとすれば、恐らくは人生に未熟であるか、的外れか、忙殺による麻痺なのだろう。問いに「我々は・・・」とあるところ、ゴーギャンは文明に毒され人生に麻痺した人たちに、ニヒルに・・真剣に警鐘を鳴らしたのだと思う。そしてこのことは当時よりもこの現代にこそ鳴らされるべきであろうし、その答えを得ることが人生を幾倍も濃密にさせ、昇華させる唯一の方法ではないかと思う。



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岸田劉生

2007年04月13日 | あぷ こころの風景 思索

 最近、今頃?といわれるかも知れないがパソコンでのビデオ予約を覚えた。良く録画するジャンルは歴史、宗教、科学、健康、…とこの辺りは今まで通り。しかし自分でも思いもよらないジャンルにも目が向き始めているようで、実はそれが「絵画」の世界。子供の頃、美術で学習した時分には全くと言って良いほど意識しなかった世界。まだまだ知らない事だらけなのだが、一枚の絵画の背景にあるもの…、時代背景、画家が受けた影響とその思想の変遷、そして人生…。忙しない日々の中で、有難くも録画した芸術番組を観ることで知った絵画の奥深さに共鳴している自分が居る。画家の心の葛藤が生み出す作品が此れほどまでに観る者を引き付けるのかと改めて感心し始めている。

 岸田劉生自画像

 何本か録画したビデオを観て気になったのは『岸田劉生』。自分は彼に対する知識は殆どないが、ゴッホやセザンヌの影響を受け画風も変わっていく中で日本人が描く洋画はいかにあるべきか、そして「存在(それがそこにある…という不可思議と充実感)」への問い、人間が持つ愛情との対峙。彼は自身の中でうごめくものを表現する絵画という方法(術・手段)を持ち得たのは幸せであったろうと思う。

 麗子微笑

 これからも絵画を通じて見える彼の深い洞察にもっと触れてみたいと思う。

 道路と土手と塀

 


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十七清浄句(煩悩即菩提)

2007年04月01日 | あぷ こころの風景 思索
 「十七清浄句(煩悩即菩提)」を獲得する上で必要なことは、分別(精査して理解して…)により様々知ることも大事なのでしょうが、結局は加持による合一(仮に一体感とでもしておきましょうか…)が重要なのだと考えます。このことを前提に自分が思うところも述べさせて頂きます。

 さて、前文と矛盾をするようですが、それでも意密という意味で頭で知る(理解する)ことが大事なことであることに違いはないとも思います。それは華厳経の世界や大日経の「大悲胎蔵曼荼羅」、金剛頂経の「金剛界曼荼羅」、般若心経の空観、特に金剛さったの「五秘密尊(曼荼羅)」…など理趣経成立までの様々な歴史及び仏教思想を知ることから始まるのでしょう。…だからと言って自分自身が上記経典や曼荼羅を理解しているわけではありませんが、【○○○○さん】の投稿『> 経典だけの理解によって、理趣経の文言を解すことは不可能であると思える。』にもございます通り、改めて理趣経のみで理解を深める事の不可能さに今更ながら気付いたものであります。さらに三密(身密・口密・意密)加持を行った上での即身成仏となると全くもって一般人には到底無理な所業にすら思えてくるのです。

 ただ、なんとなくですが「十七清浄句(煩悩即菩提)」に関して私が理解(とりあえず、こんな感じかな…と)できるのは総てが大日如来の顕現であることから、この世界に存在する物に不浄な物はないとする考えと、その大いなる大日如来の内側で幸か不幸か自由意志を持たされ生きている自分(たち)の所業との接点を述べているのではないか?…と言うことです。しかし、その文言のままではこの世界は無法地帯になりかねません。やはりきちんと理解(この期に及んでまだ「理解」…とな^^;)するには弘法大師が著した「秘密曼荼羅十住心論」なり「弁顕密二経論」、「三教指帰」等々に触れる必要性が出てくると思います。

 私自身は理趣経の大事な部分(トピック違いと思いますが…)は第十七段であって、特にその後半「百字の偈」だと思います。「金剛さった」の存在意義はこの部分にあると思いますし、翻って自分(たち)自身がその「金剛さった」であることに(様々な経典や行を通じて)気付く必要があると思うのです。

 繰り返すようですが、私は理趣経・十七清浄句は文言のみでは到底理解不能であろうことに気付き始めました。このコミュニティを始めたことすら恐れ多く感じています…(苦笑)ここ何ヶ月か真言宗系の寺院を回り、全く拙い体験ですが積み重ねて思ったことは、実体験こそが大事であり、その積み重ねる実体験の中からこそ「神秘の実在」を掴む事ができると言うことです。そして自分が講釈を垂れる立場に無いこと、まだまだ行を修める必要があることにも気付きました。

 …と言うことで、大変申し訳ないのですが私は近々にこのコミュニティは3月末までには閉鎖しようとも思っています。どなたか引き継ぎたい方が居られるようでしたらご連絡下さい。コミュニティ名など変更されて構いません。全く無責任で恐縮ですが宜しくお願い申し上げます。

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以前に mixi に投稿した文面です。まぁ、実にいい加減な管理人でした…(汗)

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初めての高野山

2007年02月25日 | あぷ こころの風景 思索

 始めて高野山を訪れたのは湾岸戦争のあった19歳の9月だった。当時バイト先で嫌な事があって一人で10日間ほど紀伊半島を旅していた時だった。橋本の駅舎で野宿をし、朝一番の電車で高野山を目指す。まぁ、せっかく近くに寄ったのだから、母が常々口にする高野山と奥の院を見てみよう…と、深い動機もなくほとんどが観光気分だった。南海の各駅停車は霧に包まれ、急な勾配とカーブをキュルキュルと車輪を鳴らして上って行った。ケーブルカーで高野山駅に着く頃にはだんだんとその霧も晴れてきていた。



 バスに乗り換え町に入ると、映る車窓に「お寺が沢山ある静かな町(今にして思えば、恐らく勤行の時間だったのだろう)だなぁ…。」と表面だけの高野山を眺めていた。それでも運転手の案内で一の橋で降ろされた時、どこを進めば奥の院へ行けるのかピンと来たが、目の前の風景とその場を包む空気感がそれまでとまったく違うことに気がついた。それはおびただしい数の墓の群れ、見上げるほどの杉の大木が続く参道。戦国大名の大きな墓から名も無き小さな墓まで、中には先の大戦の慰霊碑や企業が立てたと思われる墓もあった。予備知識がまったく無かった自分には、この圧倒的な墓の群れと静けさに「この先、どうなっているんだ?」と若干の恐怖感が沸き起こっていた。



 さて、そうかと言って引き返すことも情けなく、結局は一人で知らない道を歩くことに…。ただ、さらに参道を進んでいくと、不思議にもこれほどの墓があるにもかかわらず、先ほどの恐怖感は殆ど消えていった。むしろ心地良いくらいの清々しさを感じるようになってきていた。途中数人の参拝者とすれ違い、簡単な挨拶を交わす。中の橋も過ぎ少し歩いて幾つかの建物の前を通ると、仏像が並ぶ小さな川の前に出た。居合わせた人たちは、なにやら呪文のようなものを唱えている。皆、柄杓で仏像にお水をかけていて、自分もご利益目当ての真似をしてみる。すると、左の橋に「写真撮影不可」の立て看板が…そうしてこの先が奥の院なんだと理解した。





 その橋を渡ると行く先にある階段と大きめの建物を意識させられた。今までよりも静かな場所だった。階段を上って大きめの建物があらわになると、さすがに自分も神妙な面持ちになってくる。建物の中は薄暗く、どこからか読経も聞こえきていたと思う。やはり信者じゃなくたって合掌せずにはいられない。そして、順路になっている左の扉から外に出てると、何かさらに厚みのある静寂が心身を包んでいった。敷地の少し前を流れる小さな川と高野の森…「幽玄」と言えばそうかも知れない。とにかく説明すれば意味を成さなくなるような雰囲気がそこにはあった。19歳の自分でもそれは感じ取れた。



 奥の院を訪れるたびに浴びる清々しさ、普段はしないような瞑想も自然と行ってしまう。弘法大師が入定したとされるその場所も穢れの無い素晴らしい場所だと思う。その後、幾度も訪れた奥の院ではあるが、あの雰囲気は何度行っても、また誰が訪れても、その心を洗い清めてくれると思う。やっぱり高野山とその奥の院は日本人の心の聖地だと思う。


※写真は自前の物や拝借した物をイメージとして載せました。


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あぷ日記 Photo アルバム