Apu の All That I Am

公開備忘録のような投稿です。もしご興味をお持ち頂けましたら、PC版でご覧下さいますと嬉しいです!

乗鞍・大黒岳からの眺望 ~ お気に入りの一枚 ~



   

 以前に家族で乗鞍に出かけたときに撮った写真です。太平洋沿いに台風が通過していった翌朝に登りました。大変素晴らしい雲海も見ることが出来て家族で感動しました。マイカー規制があって、鈴蘭でバス待ちをしていた時に娘とUFO?を見たのも良い思い出です。その後、野生の熊が観光客を襲ったことがあり、うちの家族はもう行きたくないと言っています(涙)まぁ、そう言いつつもまた連れて行くつもりですが!この時の写真をスライドショーにしました。やっぱり雲海が素晴らしかったです。是非 「 乗鞍と大黒岳からの眺望 」 のリンクから見て行ってください。

もし記事にご興味がございましたら、カテゴリー毎にご覧くださると読み易いかと思います。
ページ最下部は「あぷ日記 Photo アルバム」です。過去投稿した写真のスライドショーです。
ちなみにニックネームの「あぷ」ですが、かれこれ十数年前のこと、言葉を覚えたての下の娘が「パパちゃん」と言えずに「あぷちゃん」と喋っていたのが由来です。しかし、こんな腰砕けなニックネームいつまで使うのだろうかと、そろそろ疑問と限界を感じております…(^^;)

28.解脱とは何でしょうか?

2011年06月04日 | ラマナ・マハリシの言葉
 束縛されている自我の本性に尋ね入り、その真実の本性を悟ることが解脱である。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

27.自己探求と瞑想の違いは何でしょうか?

2011年06月02日 | ラマナ・マハリシの言葉
 自己探求とは、自己の内に心をとどめておくことである。瞑想とは、自分の自我をブラフマン、つまり、存在-意識-至福であると思いなすことである。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

26.無欲と智慧にはどんな関係があるでしょうか?

2011年06月01日 | ラマナ・マハリシの言葉
 無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲とは、心がどのような対象物に向かうことも差しひかえることである。智慧とは対象物が現れないことを意味している。別の言い方をすれば、自己以外の何ものも求めぬことが無執着、あるいは無欲あり、自己をけっして離れないことが智慧である。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

25.洞察力とは何でしょうか?

2011年05月31日 | ラマナ・マハリシの言葉
 洞察力(ジュニャーナ・ドゥリシュティ)とは何でしょうか?

 静寂にあることが、洞察力と呼ばれているものである。静寂にあるということは、心が自己に溶けていることである。過去のできごとを知ったり、現在や未来のできごとを知るテレパシーや千里眼のようなものは、洞察力(ジュニャーナ・ドゥリシュティ)ではない。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

24.幸福とは何でしょうか?(2/2)

2011年05月28日 | ラマナ・マハリシの言葉
 心は、このように休むことなく動きまわり、自己から外へさまよい出てはまた元の場所へ帰ってくる。外では太陽が焼け焦げているが、木陰は気持ちがいい。灼熱の太陽の中を歩いてきた人が、木陰に宿れば涼しいと感じる。木陰からわざわざ太陽の下に出てゆき、また木陰に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人は、ずっと木陰に宿りつづけるだろう。そのように、真理を知った人の心は(*10)ブラフマンを離れない。無知な心は、その反対に世界をさまよい歩いて悲惨を味わい、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに帰ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想いである。世界が消え去り、想いが消え去れば、心は幸福を経験する。世界が現れると、悲惨の中を行く。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

24.幸福とは何でしょうか?(1/2)

2011年05月27日 | ラマナ・マハリシの言葉
 幸福は、自己の本性その物である。幸福とは自己とは別のものではない。世界のいかなる対象物の中にも幸福はない。私たちは無知のゆえに、対象物から幸福を得るものと思っている。心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。心の願いが満たされるときには、実は、心は自身の本来の場所に戻っており、自己である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、サマーディ(三昧)、失神状態、あるいは願った対象物が得られたとき、嫌いな対象物が消え去ったときには、心は内面に向かい、清らかな自己-幸福を楽しむのである。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

23.解脱を願う者にとって…

2011年05月26日 | ラマナ・マハリシの言葉
 解脱を願う者にとって、本を読むことはどんな価値があるのでしょうか?

 すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読む必要は何も無い。心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。聖典を読むことによっては、この探求はできない。人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。自己は(*9)五つの覆いの内側にあるが、書物はその外にある。自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探求されるべきものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

21.解脱を願う者にとって…

2011年05月21日 | ラマナ・マハリシの言葉
 解脱を願う者にとって、世界の構成要素(タットヴァ)を探求する必要があるでしょうか?

 台所のゴミを棄てるのに、その中身が何であるか調べたり分析したりする必要は少しもない。同様に、自己を知ろうとする者には、世界の構成要素の数をかぞえたりその性質を調べたりする必要はない。彼がしなくてはならないことは、自己を覆い隠しているすべてのものを、構成要素などというものともどもにぬぐい去ることである。世界はひとつの夢ののようなものと見なされるべきである。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.心を静かにするその他の方法はないでしょうか?(5/5)

2011年05月19日 | ラマナ・マハリシの言葉
 神の姿を瞑想することや、マントラを唱えつづけることによって、心は一点に集中される。心はつねにさまよいつづけるものではあるが、鼻を鎖でつながれた象が他のものは何もつかまえられないように、神の御名や姿に満たされていれば他の対象には動かない。数知れぬ想いへと心が拡散しているときは、そのひとつひとつの想いは弱いものとなる。それが消えてしまうと心は一点に集中され、心強いものになる。そのような心にとって自己を問うことは容易である。これまで述べてきたいろいろな方法の中では、適当な量の清らかな食物を摂るという方法が最上である。これを実践することによって心の清らかさが増し、自己を尋ねる助けになってくれる。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.心を静かにするその他の方法はないでしょうか?(4/5)

2011年05月17日 | ラマナ・マハリシの言葉
 呼吸制御の実修と同じく、神の姿を瞑想すること、(*5)マントラを唱えつづけること、断食その他の実修は心に静かさを取り戻すための方法にすぎない。.....(5/5)に続く

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.心を静かにするその他の方法はないでしょうか?(3/5)

2011年05月16日 | ラマナ・マハリシの言葉
目が覚めている状態およびサマーディ(三昧)にあっては、心が静まっていれば呼吸も制御されている。呼吸は心の粗大な姿である。死のときまでは、心の身体内に呼吸を保つ。身体が死ねば、心は呼吸とともに出てゆく。それゆえに、呼吸制御の実修は、心に静かさを取り戻す方法、すなわちマノニグラハであって、心を消滅させる方法、マノナーシャではない。.....(4/5)に続く

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.心を静かにするその他の方法はないでしょうか?(2/5)

2011年05月15日 | ラマナ・マハリシの言葉
心も呼吸も、その源は同じものである。想いとは、実に心の本性である。「私」という想いが、心の最初の想いであり、それがエゴ性である。エゴ性が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれてくる。けれども深い眠りの中では、心は静かになっているものの、呼吸は停止してはいない。これは、身体が保持されてあるよう、また他者が見て、その人が死んでしまったと思いこまないようにとの、神の意志によるものである。.....(3/5)に続く

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.心を静かにするその他の方法はないでしょうか?(1/5)

2011年05月14日 | ラマナ・マハリシの言葉
 問う以外に適当な方法はない。他の方法によって心を静めても、心は静められたものとして現われ、力を増して前面に出てくるだろう。例えば、呼吸の制御によって心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心は再び活動を始め、潜在しているさまざまな印象に衝き動かされてさまよい歩くだろう。.....(2/5)に続く

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

16.自己の本性は何でしょうか?

2011年05月13日 | ラマナ・マハリシの言葉
 真理の内に存在するものは自己のみである。世界や個々人の人格、そして神は、真珠母貝の銀色の輝きのように、自己の内に現れるものである。これら三つは、同時に現れ同時に消えてゆく。
 自己は「私」という想いが絶対にないところにあるものである。それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが世界であり、自己そのものが「私」であり、自己そのものが神である。すべてはシヴァであり、自己である。


 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10.どうすれば心は静かになるのでしょうか?

2011年05月12日 | ラマナ・マハリシの言葉
 「私は誰か」と尋ねることによって。「私は誰か」という想いは、他のすべての想いを破壊するだろう。燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、やがては「私は誰か」というその想い自身も滅ぼされてしまうだろう。そうすれば自己実現がやってくるだろう。

 『ラマナ・マハリシの教え(めるくまーる社)』 … 私は誰か ⇒続く





 ラマナ・マハリシの教え
 ラマナ・マハリシ/山尾三省(訳)
 めるくまーる

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あぷ日記 Photo アルバム